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関ヶ原から土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、余計なことをしたので改易された

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長宗我部家の家紋「七つ片喰」。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、関ヶ原合戦で西軍が東軍に敗北したが、長宗我部盛親の姿はなかった。関ヶ原から土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、余計なことをしたので改易されたので、そのあたりを取り上げることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日に関ヶ原合戦が勃発した際、盛親は毛利氏とともに南宮山に布陣していた。しかし、開戦しても南宮山に陣を置いた毛利方の軍勢が動かなかったので、盛親は戦わずして領国の土佐に逃げ帰った。

 合戦の前日に毛利氏が西軍を裏切り、東軍に身を投じたが、盛親はその事実を知らなかったのだ。せっかく西軍に身を投じた盛親にとっては、誠に不本意だったといえよう。

 帰国後の9月29日、盛親は家臣の久武親直から「津野親忠(盛親の兄)が藤堂高虎とともに土佐国を支配しようとする動きがある」と報告を受けて驚いた。その結果、盛親は親忠を殺害したといわれている(親忠の死因については諸説あり)。

 本来、長宗我部家は元親の嫡男・信親が継ぐ予定だったが、九州征伐で戦死し、四男の盛親が家督を継いでいた。長宗我部家中では、盛親が家督継承したことに不満を持つ者がいたという。

 そのような状況にあったので、盛親は親忠に強い疑念を抱き、殺害に及んだと考えられる。しかし、この一報を耳にした徳川家康は、激怒したといわれている。

 盛親は井伊直政を通して家康に謝罪し、厳罰を逃れようとした。一方で、盛親は浦戸城(高知市)に兵糧を運搬し、普請を命じて防備を固めるなどした。盛親の奉行人の非有斎と桑名三郎兵衛が指示を出していたのだ(「土佐山内家宝物資料館所蔵文書」)。

 盛親は家康に詫びを入れつつ、万が一の事態(家康に攻撃されること)に備えて、合戦準備を進めていたのである。これは、非常にまずい対応だった。

 家康は親忠を殺害したことを許さず、盛親は上京して弁明したが許されず、土佐一国を召し上げられたのである(代わりに山内一豊が入封)。

 改易された盛親は、京都で寺子屋を開き、家康に復権の嘆願をしたが、それは失敗に終わった。盛親は改易を軽く考え、すぐに復帰できると思っていたが、その考えは甘かったのである。

 結局、盛親は牢人生活を送っていたが、慶長19年(1614)に大坂冬の陣が開戦すると、招きに応じて豊臣方に与した。しかし、翌年の大坂夏の陣で豊臣方は徳川方に敗れ、豊臣家は滅亡した。盛親は戦場を離脱して逃亡したが捕縛され、斬首されたのである。

主要参考文献

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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