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徳川家康に国際感覚を身に付けさせたウイリアム・アダムズとは、いかなる人物なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
浦賀港(神奈川県横須賀市)(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ウイリアム・アダムズと徳川家康との邂逅の場面があった。その後、アダムズは同僚のヤン・ヨーステンとともに、家康から重用された。アダムズとは、いかなる人物だったのだろうか。

 1564年、アダムズはイギリスのケント州ジリンガムで誕生した。少年時代に造船所に就職し、のちに水先案内人(航海士)となったのである。

 1598年、オランダにわたっていたアダムズは、東洋派遣艦隊のリーフデ号の水先案内人としてアジアへ渡航することになった。これは、オランダからの太平洋回りの航海だった。

 ところが、航海は厳しいものとなり、5隻の船から成る艦隊は途中で離散することになった。幸いなことに、アダムズが乗ったリーフデ号は1600年4月19日に豊後臼杵湾の佐志生(大分県臼杵市)に漂着した。

 その際、長崎奉行は彼らから武器などを取り上げた。漂着したアダムズらは、家康と面会するため、身動きできなかった艦長の代わりに大坂へと向かったのである。

 イエズス会(カトリック系)の宣教師は、イギリス人やオランダ人(プロテスタント系)を処刑するよう求めていたので、家康はリーフデ号が海賊船と思い込んでいた。

 しかし、アダムズらから航海の目的、プロテスタント国とカトリック国が対立している理由などを聞き、その真意を知ることになった。その結果、アダムズらは処刑されなかったのである。

 アダムズは帰国を希望したが、家康は許さず、彼らを召し抱えることにした。家康はアダムズに俸給を与えると同時に、通訳として外国使節との交渉に起用し、航海術や数学などを家臣らに教授させた。いわば外交顧問のような立場である。

 同僚のヨーステンも同様に召し抱えられた。その後、アダムズは家康から西洋式の帆船を建造するよう命じられ、1604年に完成した(3年後にももう1隻を完成させた)。家康はアダムズを起用して、成功したといえよう。

 こうしてアダムズは家康から重用されて旗本となり、相模国逸見(神奈川県横須賀市)に250石の知行を与えられた。同時に、三浦按針という名も授けられたのである。

 三浦は相模国三浦郡にちなんだもので、按針はアダムズの職業である水先案内人(航海士)を意味した。アダムズは日本人のお雪(マリア)と結婚し、ジョゼフとスザンナの一男一女に恵まれた。

 アダムズはオランダ、イギリスと日本との通商を推し進め、朱印船貿易で東南アジアに進出した。アダムズも幕府に貢献することで、大きなメリットがあったのだ。

 ところが、1616年に家康が亡くなり、子の秀忠(2代将軍)が名実ともに幕政を担うようになると、外交方針が転換した。その結果、アダムズは不遇を囲うこととなり、1620年に病没したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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