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主君と仲違いをして、家中から出奔した3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伝 後藤又兵衛 甲冑(松江城 島根県松江市)(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石川数正が徳川家康のもとから出奔し、豊臣秀吉のもとに走った。実は、主君と仲違いして、出奔した戦国武将はいるので、うち3人を紹介することにしよう。

1.後藤又兵衛(1560~1615)

 後藤又兵衛は福岡藩の黒田家に仕え、筑前国小(大)隈城(福岡県嘉麻市)に約1万6千石を与えられた。しかし、又兵衛は豊前国小倉の細川氏との交際が問題視された。

 黒田長政は交際を止めるよう注意し、誓紙も交わしたが、その後も又兵衛は細川氏と交際を続け、さらに播磨国姫路の池田輝政との関係も明らかになった。

 以上のことが原因で、又兵衛は黒田家を去り、牢人になった。又兵衛は一両年にわたって放浪生活を送ったが、長政による就職活動の妨害に遭い、仕官が叶わなかった。

 又兵衛は人を介して、黒田家に仕官したいと申し出たので、いったん長政は仕官を許すことにしたが、又兵衛の言動に不審な点があったため、この話は実現しなかった。

2.塙直之(1567~1615)

 塙直之は、加藤嘉明の家臣となり重用された。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦において、直之は功を焦ったのか、1人で鎗を持って突撃するという、軍令違反を犯したのである。

 当時、抜け駆けは統率を乱すので、もっとも重いルール違反であった。軍法には、そうした規定が必ずある。

 この軍令違反をめぐって直之と嘉明は言い争い、それが原因で直之は加藤家を出奔した。むろん理由はそれだけでなく、処遇に関する不満があったという。

 その後、直之は小早川秀秋、松平忠吉に仕官したが、ともに中途で改易された。そして、福島正則に仕官したが、旧主である嘉明の妨害によって職を失ったのである。

3.細川興秋(1583~1615)

 細川興秋(忠興の次男)は養子に出されるなどして苦労したが、やがて自分が細川家を継げず、弟の忠利が家督の継承者となったことを知る。

 慶長10年(1605)1月、興秋は江戸に赴く途中に出奔し、突如として京都・南禅寺(建仁寺という説も)で出家した。出奔した理由とは、自身が家督を継げないという不満であった。

 別の史料によると、興秋は人質として江戸に行くことを不満に思っており、忠興と興秋との関係は非常に険悪であったという。やはり、家督をめぐる不満だろう。

 長岡肥後が仲介をしようとしたが、状況が好転しないまま興秋は出発した。そして、京都に到着すると興秋は出奔し、南禅寺で出家したというのである。

 このように、主君と仲違いした理由はさまざまであるが、自身の要望が叶わなかった場合は出奔することも珍しくなかった。

 しかし、旧主もいじわるだったので、再就職をさせないように妨害した。その結果、行き場のなくなった彼らは、大坂の陣で豊臣方に与したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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