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逃亡の末、一揆に襲撃された明智光秀の悲惨な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀の最期が描かれていた。光秀は逃亡中に土民に殺されたので、その最期を確認することにしよう。

 天正10年(1582)6月13日、羽柴秀吉軍に敗北した光秀は、勝竜寺城(京都府長岡京市)へ逃げ帰ったが、そこも羽柴方の軍勢に包囲されて脱出した。光秀は、居城がある近江国坂本城(滋賀県大津市)を目指して逃亡したが、その日のうちに討ち取られたのである。

 『多聞院日記』によると、逃亡中の光秀は山科(京都市山科区)で一揆に襲撃され、叩き殺されたという。『多聞院日記』は「あさましいことだ」と感想を述べたうえで、「光秀は信長に引き立てられたのに恩を仇で返したので、天罰が下ったのだ」と記す。

 『言経卿記』には、光秀が醍醐(京都市伏見区)の辺りに潜んでいると、郷人(郷民)が討ち取って、首を本能寺に献上したという。6月17日、光秀の家臣・斎藤利三は潜伏先の近江堅田(滋賀県大津市)で捕縛され、京都市中に乗り物で移動し、六条河原で斬られた。

 7月2日、光秀と利三の首は残酷にも胴体と接続させて、粟田口で磔にされた。群衆が見物のため群がったという。そのほか光秀方の将兵の3000余の首については、首塚を築き葬ったと書かれている。

 当時、落ち武者狩りという慣行があり、郷民(一揆)は負けて逃亡した武将を生け捕りにしたり、討ち取ったりした。彼らは身に着けたもの(金品、衣服、武具など)を奪ったり、首を取ったときは勝った武将に差し出したりして、恩賞を受け取ったのである。

 『兼見卿記』は、光秀が一揆(土民)に討ち取られた場所は醍醐で、京都所司代・村井貞勝の一門衆で家臣の村井清三が織田信孝のもとに首を持参したと記す。その後、光秀の首は本能寺に晒された。斎藤利三を近江堅田で捕らえたのは、近江の土豪・猪飼半左衛門だった。

 光秀と利三の首が晒され、首塚が粟田口の東の路次の北に築かれた。奉行を務めたのは、桑原次右衛門と村井清三だった。織田方は、光秀や利三の首と胴体を接続し、見せしめとして磔にしたが、最後は敬意を表して丁重に葬ったのである。

 その後、坂本城(滋賀県大津市)は炎上し、光秀の一族や家臣も非業の死を遂げた。こうして明智一族は、滅亡したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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