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明智光秀は武田氏と結託し、織田信長を討とうとしたのか。ありえません

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
亀山城跡。南郷公園の明智光秀像。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀が傷んだ料理を出し、織田信長から殴られていた。ところで、光秀が武田氏と結託し、信長を討とうとした説があるが、本当なのか考えることにしよう。

 天正10年(1582)2月、光秀は武田氏のもとに密使を遣わし、信長に叛旗を翻す旨を伝え協力を求めた。しかし、武田氏の家臣・長坂釣竿斎らは光秀の申し出を謀略であると疑い、要請に応じることがなかった。先年、佐久間信盛が勝頼に内通してきたが、結果的に嘘だったからである。

 『甲陽軍鑑』は、江戸時代初期に編纂された軍学書である。『甲陽軍鑑』の評価は偽書説などがあり、使えない史料とされてきたが、現在では再評価されている。しかし、この記述については、一次史料の裏付けが乏しく、そのまま採用できないと考えられる。

 そもそも佐久間信盛が武田氏に通じようとした証拠はなく、光秀についても同様である。武田氏は長らく信長と戦っていたので、光秀が結ぼうと考えたなら話としておもしろいが、その程度の話であって、傾聴すべき点はないといえる。

 同じような話は、『細川家記』にも記されている。武田氏滅亡後の天正10年(1582)5月、徳川家康は武田氏の旧臣・穴山梅雪(信君)を伴って、安土城(滋賀県近江八幡市)を訪れた。

 しかし、梅雪は武田氏の旧臣だったので、光秀が武田氏に通じようとした事実がばれてしまっては困る。そこで、光秀は信長を討とうと決意したというのである。

 小野武次郎が編纂した『細川家記』は、安永年間(1772~1781)に完成した『綿考輯録』(細川幽斎、忠興、忠利、光尚の四代の記録)をもとにして編纂された。忠利、光尚の代は信憑性が高いが、幽斎の時代は史料が乏しく問題が多いと指摘されている。

 『細川家記』は編纂の際に膨大な量の文献を参照しているが、信頼度の劣る二次史料も多く問題が多い。たとえば、『明智軍記』や『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれており、史料の選別はあまり行われていないので難がある。

 そもそも梅雪を通して、光秀がかつて武田氏と結ぼうとしたことが露見する危険性があるなら、それ以前に挙兵しなければ意味がない。話が矛盾していて、まったく信用できない作り話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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