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明智光秀は、本当に織田信長から徹底的にイジメ抜かれたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀が織田信長から暴行されていた。昔から光秀は信長からイジメ抜かれていたといわれているが、事実なのか検討することにしよう。

 昔から明智光秀が織田信長に謀反を起こしたのは、積年の恨みがあったからだといわれてきた。いわゆる怨恨説である。光秀が信長に敵意を抱いていたので謀反を起こしたことは自明であるが、信長が光秀を徹底的にイジメ抜いたというは事実なのだろうか。

 信長が光秀に折檻したという話は、いくらでもある。天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後、光秀は諏訪(長野県諏訪市)で信長に向かって、なぜか急に「私が苦労した甲斐がありました」と述べた。これがことの発端である。

 途端に信長は逆上して「お前はいったい何をしたのだ」と怒鳴りつけると、光秀の頭をつかんで欄干にこすりつけたのである。これが衆人の前だったので、光秀は大恥をかいたことになる。それゆえ、光秀は信長を恨んだというのである(『祖父物語』)。

 宴が催されたとき、信長は大きな盃になみなみと酒を注ぎ、光秀に飲み干すよう強要した。光秀は酒が飲めなかったので辞退すると、信長は刀を光秀の口元に突き付け、「酒を飲むか、刀を飲むか」と言われたので、泣く泣く酒を飲んだという(『常山紀談』)。

 また、光秀は稲葉氏の家臣を引き抜くことがあり、そのことを信長から叱責された。あまりに激昂した信長は、思わず光秀の頭を張り倒した。光秀は頭が薄かったのでカツラをしていたが、信長に頭を張り倒されて、カツラが落下したというのである。これが本能寺の変の原因になったという(『稲葉家譜』)。

 光秀がハゲだったのは、ほかにも逸話がある。宴席で光秀が用を足そうとし、立ち上がったところ、信長は「このキンカ頭(ハゲ頭)め!なんで中座するんだ!」と激昂すると、光秀の喉元に槍の穂先を突き付けたという。これもまた、光秀が信長を恨む原因となった(『義残後覚』)。

 しかし、こうした逸話は、信頼度の落ちる後世に成った二次史料に書かれたもので、同時代の一次史料には書かれていない。おまけに話は荒唐無稽で、ドリフターズのコントのようでもある。したがって、こういう類の話は妄説として退けるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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