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大河ドラマでは完全スルー。長篠の戦い後、武田勝頼の時代が7年も続いた当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田勝頼。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏の滅亡が描かれていた。長篠の戦い後、武田勝頼はいかにして織田信長に抗したのか確認することにしよう。

 天正8年(1580)1月、織田信長は三木城(兵庫県三木市)を約2年にわたる兵粮攻めで降参に追い込み、その直後には大坂本願寺との10年にわたる抗争に終止符を打った。

 北陸方面では上杉景勝との戦いが有利に展開し、中国方面でも毛利氏を追い詰めつつあった。武田勝頼に対しては天正3年(1575)5月の長篠の戦いで勝利を収めたが、武田氏が滅亡したわけではない。信長は武田氏を討ち果たすべく、準備に余念がなかった。

 天正3年(1575)5月の長篠の戦いで大敗を喫した武田氏は、そのまま転落の道を歩んだわけではない。その後も織田、徳川、北条らと攻防を繰り広げつつ、命脈を保っていた。

 長篠の戦いで、武田方は馬場信春、内藤昌豊、山県昌景らの重臣が戦死したので、大打撃になったのは事実である。真田昌幸の兄の信綱、昌輝も長篠の戦いで戦死したので、大きな痛手を蒙った。

 以後、武田信豊、小山田信茂、穴山信君(梅雪)、長坂光堅、跡部勝資、土屋昌恒といった家臣が勝頼を支えた。信豊は親族衆の1人で、信玄の弟・信繁の子である。天正7年(1579)に武田氏が上杉氏と同盟を締結した際は、取次を担当した。

 小山田信茂は岩殿山城(山梨県大月市)主で、甲斐都留郡を支配する国衆だった。武田氏庶流の穴山信君は甲斐南部の河内地方を支配下に収め、江尻城(静岡市清水区)の城代も務めていた。小山田、穴山の両氏は、御一門衆だった。

 信濃国木曽谷の国衆の木曽義昌は、武田信玄の娘・真理姫(真竜院)を妻に迎えていたので、武田氏の親族衆として処遇された。こうして木曽氏は、木曽郡全域を支配することができたのである。

 武田氏の家臣は、親族や一門、そして譜代の家臣団により構成されていたのは、従来と変わりがなかった。それゆえ、武田氏の体制は決して弱体したとはいえず、顔触れが変わっただけに過ぎなかった。そうでなければ、7年も信長と抗争できなかったはずである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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