「元亀」から「天正」に改元したのは、織田信長の天下への強い意気込みにあった
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、いつの間にか「元亀」から「天正」に改元していた。なぜ、改元が行われたのか、考えることにしよう。
元亀4年(1573)、織田信長は足利義昭と決裂し、京都から追放した。同年7月21日、信長は朝廷に改元の提案をした。同年7月29日、朝廷は信長に改元するよう、要望したのである。
朝廷が信長に改元を依頼したのは極めて異例のことで、信長は「天正」という年号を提案した(『壬生家四巻之日記』)。通常、年号の選定は、学識ある年号勘者が複数の案を作成し、天皇が最終的に決める。今回の改元に際しても、「天正」以外に複数の候補があった。
結局、いくつかの案の中から「安永」、「天正」が最終候補として残った。天正には、「清静なるは天下の正と為る」という意味があった(出典は『老子』)。候補の「天正」という年号は、信長が理想とした考えに沿うものだった。
信長が朝廷に改元を申し出たのは、いくつかの理由が考えられる。義昭が京都から追放されて以降、信長は武家側のトップとして朝廷を支え、天下静謐を実現せねばならなかった。新年号に関する綸旨には、「天下静謐安穏」と記されていた。
なお、当時の天下は、京都を中心とした周辺地域(五畿内:大和、山城、和泉、 河内 、 摂津)を示した。ちょうど幕府や朝廷の権限が及ぶ範囲である。
以前、信長は改元を速やかに行うよう、義昭に要求したこともあったので、改元を要望したのは当然だった。さらに、新年号「天正」の意味は「清静なるは天下の正と為る」だったので、信長が掲げる「天下静謐」と矛盾しなかった。
信長が新年号に希望を申し出たのは、過去にも例がなく極めて異例なことだったが、そのこと自体は天皇の職権(年号の制定)を侵すものではなかった。「天正」が持つ「天下静謐」という理想は、信長も正親町天皇も共有していたと考えられる。
信長は改元を提案することで、室町幕府に代わる武家のトップとして、天皇を庇護する決意を強く固めたといえよう。しかし、それは信長が征夷大将軍に就任し、幕府を開くことを意味しなかった。将軍にならなくても、すでに将軍と同等の権限を持っていたからである。