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五徳が織田信長に送った、12ヵ条の訴状のえげつない内容

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名の大きな決断が注目された。その発端となる五徳が織田信長に送った、12ヵ条の訴状の内容を確認することにしよう。

 五徳が瀬名と松平信康が武田氏に密通したことを疑い、父の信長に12ヵ条の訴状を送ったことは、『改正三河後風土記』などにその経緯が記されている。実際のところ、五徳はどういう内容で瀬名らの非道を訴えたのだろうか。以下、要点を記しておこう。

 五徳が信長に12ヵ条の訴状を送ったのは、天正7年(1579)のことである。

①瀬名は悪人で、讒言して信康と五徳の仲を引き裂こうと画策した。

②瀬名は五徳が男子を産まないことに腹を立て、武田家の家人の娘を信康の側室にしようとした。

③瀬名は滅敬という唐人の医師と密会し、これを使者として、信康とともに武田氏に与することを誓った。

④瀬名は織田・徳川両家を滅ぼし、両家の所領を信康に与えることにし、自身は小山田氏の妻になろうとした。

⑤信康は乱暴な男で、五徳の侍女の小侍従を目の前で刺し殺し、その口を引き裂いた。

⑥信康は踊りが好きで、あるとき踊る様子を見ていたが、「踊り子の装束が良くなく、踊りも下手くそだ」と言い掛かりをつけ、弓で射殺した。

⑦信康が鷹狩りで僧侶に出会ったとき、「今日、獲物が取れなかったのは僧侶に会ったからだ」と言うと、僧侶の首に縄を付けて馬に括りつけ、馬を走らせて殺した。

⑧勝頼の書状のなかにも、「信康はまだ武田家に一味していないが、何としても味方にすべき」と書いていたので、やがて信康は敵になると考えられること。

 『改正三河後風土記』には瀬名や信康の悪行が書かれており、12ヵ条の訴状はその話をベースに書かれていることが明白である。しかし、こうした瀬名や信康の悪行は、良質な史料に書かれているものではない。それゆえ、内容に疑問が少なからずある。

 そもそも瀬名が武田氏と密かに通じるのは、徳川方の監視があったと考えられるので、あまりに無謀で危険な賭けである。特に、②の「武田家の家人の娘を信康の側室にしようとした」などは、あまりに荒唐無稽な話で考えにくい。すぐに筒抜けになるはずだ。

 信康の粗暴な振る舞いについても疑わしく、豊臣秀次が養父の秀吉から切腹を申し付けられた際も、後世の史料に似たような所業(秀次が辻斬りをしたなど)が書かれている。つまり、『改正三河後風土記』などに書かれていることは疑問であり、さらに検討が必要と思われる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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