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止めておけばいいのに、織田信長に逆らって消えた3人の大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の苛烈な性格が注目される。今回は、止めておけばいいのに、織田信長に逆らって消えた3人の大名を紹介することにしよう。

1.波多野秀治(?~1579)

 丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)主の波多野秀治は、織田信長と友好的な関係にあった。天正4年(1576)、秀治は突如として信長に反旗を翻した。裏切った理由は定かではないが、この年に鞆(広島県福山市)に逃れた足利義昭の誘いがあったからだろう。

 明智光秀は信長から秀治を討伐するよう命を受けたが、大坂本願寺への出陣を命じられるなどしたので、足掛け3年にもなった。光秀は八上城を兵糧攻めにし、秀治を降参に追い込んだ。その後、秀治らは安土城(滋賀県近江八幡市)に連行され、磔刑に処された。

2.別所長治(1558~1580)

 三木城(兵庫県三木市)主の別所長治も、織田信長と友好的な関係にあった。天正6年(1578)2月、長治は羽柴(豊臣)秀吉とトラブルになり、信長から離反した。しかし、波多野氏と同じく、足利義昭を中心とした信長包囲網の誘いに乗ったと考えるべきだろう。

 以後、長治は秀吉による2年にわたる籠城戦に耐え抜いたが、天正8年(1580)1月に降参し開城した。結果、長治は城兵を助ける条件で、一族とともに自害して果てた。戦後、秀吉は三木の町を復興させ、長治の遺志を汲んだのである。

3.荒木村重(1535~1586)

 有岡城(兵庫県伊丹市)主の荒木村重は、織田信長の配下にあった。天正6年(1578)10月、村重が突如として離反したので、信長は止まるよう説得した。しかし、応じなかったので、信長は有岡城の攻撃を開始したのである。

 村重は劣勢を強いられ、翌年には尼崎城へと逃れた。その後、有岡城は開城し、村重の妻子や女房衆は処刑された。村重は、毛利氏の庇護を求めて尾道(広島県尾道市)に移った。村重が堺(大阪府堺市)で亡くなったのは、天正14年(1586)のことである。

 3人は決して無謀な賭けに出たのではなく、足利義昭が中心となる信長包囲網が有利と考えた。しかし、信長は意外にも強力で、後世になって「止めておけばよかったのに」という評価になったのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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