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大河ドラマでは完全スルー。織田信長が足利義昭を見限った、当たり前すぎる理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が足利義昭と決裂してしまった。信長はなぜ義昭を見限ったのか、詳しく検討することにしよう。

 永禄11年(1568)10月、足利義昭は織田信長に推戴されて上洛を果たした。そして、義昭は15代の征夷大将軍に就任すると、念願だった室町幕府の再興を果たしたのである。以降、義昭は信長に頭が上がらなかったようである。

 義昭は信長を懐柔すべく、足利家の家紋の桐紋と二引両の使用を許したり、管領や副将軍に任じたりしようとした。ところが、信長は義昭の配下になることを嫌がったのか、管領と副将軍は辞退したようだ。

 この時点で、信長自身には天下統一の意欲がなかった。それゆえ信長は、京都支配のための家臣を残したものの、自身は美濃の岐阜城に戻ったのである。では、信長の本心はどこにあったのか。

 信長は義昭の要請に応じて、義昭を帰洛させ、幕府を再興すればそれで良かった。かつてのように幕府が京都や畿内を円滑に支配し、同時に朝廷への奉仕を行えば、それで十分だったのである。信長が家臣を置いたのは、義昭をサポートするためだった。

 ところが、義昭は信長の期待に応えることができなかった。それは、信長が義昭に突き付けた、元亀3年(1572)9月の「異見十七ヵ条」に垣間見ることができる。これは、信長から義昭への絶縁状でもあった。

 「異見十七ヵ条」には、義昭の失態や職務怠慢ぶりを17ヵ条にわたって列挙している。むろん、内容のすべてを事実とみなすわけにはいかず、信長が義昭と決裂した正当性を世間に知らしめるためのプロパガンダと考えるべきかもしれない。

 義昭は朝廷への奉仕(改元、御所の修繕など)もろくに行わず、善政を敷くなど程遠かった。あろうことか、信長の敵対勢力とも通じる始末である。これでは、いかに信長と言えども、ブチ切れるのは致し方ない。

 かつて、信長は義昭を傀儡とし、来るべ時期に追放しようとしたといわれてきた。しかし、それは誤りである。むしろ信長は、義昭への支援を惜しまなかったが、期待を裏切られた。あまりのことに、信長は義昭を見限ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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