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「どうする家康」明智光秀がかつて越前朝倉氏に仕えていたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」は、金ヶ崎退き口の場面だった。ドラマで、明智光秀が自身と越前との関わりを発言していたが、その点について考えてみよう。

 明智光秀の前半生は、不明な点が多い。その生涯が明らかなのは、晩年の10数年にすぎない。では、光秀と越前との関係について、もう少し詳しく検討してみよう。

 『明智軍記』によると、光秀は鉄砲の腕を見込まれて、越前朝倉氏に仕えたという。光秀は約45m離れた距離から鉄砲を撃ち、約30cm四方の的を撃ち抜いたといわれている。これが事実ならば、相当な鉄砲の腕前といってもよいだろう。

 小瀬甫庵の『太閤記』によると、光秀は朝倉景行に仕え、一向一揆との戦いに出陣したという。光秀は一揆勢の動きを見るなり、夜襲に備えるべきだと意見した。多くの者は訝しく思ったが、その通り備えていると、一揆勢は夜襲を仕掛けてきた。

 朝倉軍は備えが万全だったので、一揆勢に勝利した。景行は光秀の手腕を評価し、朝倉義景の配下に加わるよう勧めたという。いずれにしても、光秀の軍事能力の高さを評価した逸話である。

 とはいえ、『明智軍記』も『太閤記』もかなり質の悪い史料なので、鵜呑みにするのは危険である。

 『細川家記』によると、足利義昭は細川藤孝とともに越前朝倉氏を頼り、しきりに上洛の機会をうかがっていた。義昭は軍勢を持たないので、義景の軍事力を頼るしかなかった。しかし、義景の腰は重たく、上洛する素振りさえ見せなかった。

 そのとき、光秀は義昭に対して、「朝倉氏はとても頼りにならない。頼るならば、美濃の織田信長を頼った方がいい」と助言した。義昭は光秀の助言に従い、信長を頼ると、上洛が実現したのである。『細川家記』も古い時代の記述は信頼度が落ちる。

 光秀が朝倉氏に仕えていたことを明確に示す一次史料はない。強いていうならば、『遊行三十一祖 京畿御修行記』に光秀が朝倉氏を頼り越前にやって来たこと、長崎称念寺(福井県坂井市)の門前に10年住んでいたことを記すくらいである。

 この史料を読む限り、光秀が朝倉氏を頼ったのは事実としても、仕官していたとはみなし難い。せいぜい客分扱いだろう。そもそも朝倉氏の本拠である一乗谷(福井市)ではなく、なぜ時宗寺院の長崎称念寺の門前なのか。

 また、光秀の朝倉家臣としての史料が存在しない。光秀が朝倉氏に仕えていたか否かについては、今後の検討が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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