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徳川家康もあまりの高値にびっくりした「金平糖(コンフェイト)」とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
金平糖。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が初めて金平糖を目にした。家康はそのあまりの高値に驚いていたが、改めて金平糖について考えることにしよう。

 金平糖は南蛮菓子の一種で、その語源はポルトガル語のコンフェイト(confeito)である。徳川家康らが「こんぺいとう」と発音せずに、「コンフェイト」と発音したのは正しかったのかもしれない。

 16世紀半ば以降、大航海時代の影響は我が国にも及んだ。ポルトガルの商船が日本を訪れ、数々の西洋の文物をもたらした。南蛮菓子でいえば金平糖だけではなく、ビスケット、カステラ、キャラメル、パンなどが該当する。

 金平糖が我が国に渡来したのは、天文15年(1546)といわれているが、正確に指摘するのは困難だろう。日本にやって来たポルトガルの宣教師は、こうした西洋菓子を用いて、布教活動を行ったとさえいわれている。

 金平糖はケシ粒に砂糖の液を掛けては乾かすことを繰り返し、加熱することで糖分が噴き出し、角ができることで完成する。その製法は難しく、国産で作られるようになったのは、17世紀後半頃だったといわれている。

 永禄12年(1569)、織田信長は京都でポルトガル人宣教師のルイス・フロイスと面会した。その際、フロイスが贈り物として準備したのが、金平糖なのである。新しいもの好きの信長なので、きっと強く関心を抱いたに違いない。

 信長の時代、金平糖は日本で製造していなかったので、高価だったことは疑いない。ドラマでも高価な品として扱われていたが、とても一般人が手に入れることはできなかったと考えられる。

 それゆえ、商人の茶屋次郎四郎が家康の要望に応じて入手したことは、奇跡的なことだっただろう。むろん、家康が苦心惨憺して入手した金平糖を、足利義昭が差し出すように命じ、一口で食べてしまったことは史実か否か不明である。

 江戸時代以降、ポルトガル船によって長崎には、たびたび金平糖が持ち込まれた。今のように甘いものは多くなく貴重だったので、贈答品として珍重されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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