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明智光秀は近江佐目出身でなかったという、当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。このとき明智光秀も登場していたが、本当に近江の出身だったのか考えることにしよう。

 明智光秀は美濃の名門・土岐明智氏の流れを汲むといわれているが、今となっては根拠が薄いとされている。近年になって注目されたのは、近江佐目(滋賀県多賀町)出身説である。この説に妥当性があるのか、考えてみよう。

 近江佐目出身説の根拠史料は、『江侍聞伝録』(寛文12年・1672成立)、『淡海温故秘録』(貞享年間・1684~88成立)という編纂物で、ともに光秀の没後から約100年後に成立した二次史料(後世に編纂された史料)である。

 『淡海温故秘録』は地誌(郷土誌などの類)で、『江侍聞伝録』は中世における近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記した史料だ。『江侍聞伝録』も『淡海温故秘録』も、光秀の出自について書いてある内容はほぼ同じである。以下、その概要を示しておこう。

 美濃土岐氏の流れを汲む明智十左衛門なる人物は、主の土岐成頼のもとを飛び出し、近江国へとやって来た。やがて、十左衛門は近江守護の六角高頼の庇護を受け、近江佐目の地に安住する。それから2・3代あとになって、佐目の地で誕生したのが光秀だというのだ。

 この話が事実ならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目になる。地元には、光秀に関する逸話・伝承の類、あるいは関連する史跡も残っている。とはいえ、これらの史料に載る光秀の逸話は、どれも荒唐無稽で信が置けない。年次も明確に書かれていない。

 現存する一次史料には、光秀が近江出身だったと書いているものがない。おまけに『江侍聞伝録』、『淡海温故秘録』は、史料としての質に問題がある。光秀の近江佐目出身説はたしかな史料で裏付けできないのだから、正しいと認めるわけにはいかないだろう。

 とはいえ、なぜ佐目にこのような伝承が残ったのか、追究する価値はある。今後は、文化史的な観点から、光秀の近江佐目出身説を検討すべきではないだろうか。

【主要参考文献】

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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