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明智光秀はいつ生まれたのかもわからない、謎の男だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。このとき明智光秀も登場していたが、その生年について考えることにしよう。

 明智光秀の誕生年は、享禄元年誕生説が多い。『明智系図』(『続群書類従』)には、享禄元年(1528)3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したとある。

 『明智氏一族宮城家相伝系図書』は、享禄元年(1528)8月17日に誕生し、石津郡の多羅で誕生したと記す。父は進士信周、母は光秀の父・光綱の妹だったという。

 享禄元年生誕説を唱える編纂物としては、『明智軍記』がある。すでに半世紀以上も前、『明智光秀』(吉川弘文館)の著者・高柳光壽氏が『明智軍記』を「誤謬充満の悪書」と指摘した編纂物である。『明智軍記』は誤りが多いので、歴史史料として用いるのには躊躇する。

 『当代記』は光秀の没年齢を67歳であると記しているので、永正13年(1516)の誕生となる。同書は当時の政治情勢などを詳しく記しており、時代が新しくなるほど史料の性質は良くなっていく。

 ところが、信長の時代は、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵『信長記』に拠っている記事が多い。比較のうえでは先の系図類よりも『当代記』が良質と指摘されているが、内容が正しいという保証はない。

 熊本藩・細川家の正史『綿考輯録』には光秀が57歳で没したと記されているので、誕生年は大永4年(1524)になる。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿が詳しく描かれているが、信頼に足りうる史料なのだろうか。

 これまでの研究によると、忠利、光尚の代は時代が下るので信憑性が高いかもしれないが、藤孝(幽斎)の時代になると問題になる箇所が少なくないと指摘されている。それは、なぜだろうか。

 その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際しておびただしい量の文献を参照しているが、巷間に流布する軍記物語なども材料として用いられているからで、先に取り上げた『明智軍記』や『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれている。

 『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としていることから、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかである。同書における光秀の記述については慎重になるべきで、細川家の正史だから正しいという保証はないのである。

 結論を言えば、光秀の誕生年は、おおむね永正13年(1516)から享禄元年(1528)の間とくらいしか言えない。しかも、「二次史料に拠る限り」という留保付きである。

【主要参考文献】

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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