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家康は織田信長と対立したので、明智光秀の信長討ちに協力したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、家康が織田信長に相変わらずイジメ抜かれている。ところで、家康が本能寺の変の黒幕が家康だったという説があるが、事実なのか考えることにしよう。

 本能寺の変の黒幕の有力候補として、徳川家康がいる。家康はドラマのように織田信長にイジメ抜かれたのではなく、協力関係にあったはずだが、なぜ黒幕と疑われたのだろうか。

 家康と信長には、過去に遺恨があった。天正7年(1579)8月、家康の嫡男・信康が自害して果てた。信康の切腹を家康に命じたのは、信長だったという。

 家康が不本意に感じていたら、信長に恨みを抱くのは当然である。ところが、現在では家康の意思のもとで信康を自害させたことが有力視されているので、この説は当たらない。家中騒動の一つとして理解されている。

 天正10年(1582)3月、信長は家康と協力して、武田氏を滅ぼした。武田氏の滅亡後、信長にとって家康の存在価値は薄くなり、かえって競合する存在になったといわれている。

 それゆえ、信長は家康を危険視し、しかるべき時期に討とうと考えていた。家康は、信長の計画を見抜いていたというのだ。しかし、信長の敵対勢力(上杉氏など)はまだ存在したので、家康は戦力として重要だった。

 寛永17年(1640)に成立した『本城惣右衛門覚書』(本城惣右衛門の回顧録)によると、光秀が京都に向かうように指示したとき、本城惣右衛門は家康を討つものだと思っていたという。しかし、この点については、史料の誤読であると指摘されている。

 信長が家康を討とうとしたことは、『日本史』(フロイス著)、『老人雑話』(江村専斎著)にも書かれている。結局、家康は信長に恨みを抱き、また信長に討たれることを危惧したので、光秀と協力して信長を討とうとしたということになろう。

 しかし、『本城惣右衛門覚書』は変から60年後に書かれており、信憑性に問題がある。本人が書いているから、必ず正しいとは言えない。高齢になって執筆されたので、記憶違いも考えられる。

 『老人雑話』も、信憑性が低い後世の編纂物に過ぎない。『日本史』だけがほぼ同時代の史料であるが、ほかに裏付けとなる確実な史料に乏しいので、鵜呑みにするわけにはいかないだろう。

 現時点において、家康が信長に恨みを抱き、また信長から討たれそうになったので、光秀の黒幕となって協力したとはいえない。証明するには、確実な証拠が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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