江戸時代だけではなかった!戦国時代にもあった「大奥」のこと
NHKのドラマ「大奥」が評判である。大奥といえば、江戸時代の専売特許のように思われているが、実際は戦国時代にもあった。今回は、戦国時代の大奥を取り上げることにしよう。
大奥とは、江戸時代における徳川将軍家の夫人の居住区を示している。「奥」とは、一般的に武家の夫人の居所のことを称する言葉である。
ただし、大奥とは、徳川将軍家のみに限って使用されていた。江戸城には、本丸、西の丸、二の丸にそれぞれ大奥と呼ばれる区画が設けられていた。
大奥に該当する制度は、豊臣秀吉の大坂城の例がある。それは、大奥ではなく「御奥」と称された。鎌倉・室町幕府の将軍についても、館に政務を取り仕切る表御殿、そして休息する奥御殿との区別があった。それを敷衍すれば、戦国時代の城にも、同じ区別があったと考えられる。
大坂城の御奥の存在は、ルイス・フロイスの書簡や『顕如上人貝塚御座所日記』により、その一端をうかがうことができる。ルイス・フロイスの書簡には、織田信長が御奥と同じような制度を持っていたこと、そして御奥の女性の身分が高かったことを記している。
大坂城の御奥に在籍した人数は、約120名もいたので、相当な規模だった。また、のちには城内に豪華絢爛な装飾が施されるなどし、300名以上の美少女が召使いとして雇われていたという。
実際に大坂城の御奥を見学するのは、なかなか容易ではなかった。以下に示す大友宗麟の見聞記は、極めて貴重であるといえよう。
最初に宗麟が案内されたのは、御寝所であった。御寝所は、9間四方の広さがあり、長さ4尺の御寝台があった。
褥(敷物)は猩々緋(しょうじょうひ:黒味を帯びた深紅色)で、枕のほうには黄金の彫り物があった。そのさらに奥には、6間四方の御寝所があり、唐織物の夜着がたたんであった。
次に案内されたのが御奥である。最初に通されたのは、御衣裳所であった。そこには、女房衆の色とりどりな小袖が掛けられていた。納戸のうちには、小遣銭と称して、金子が30貫目ほど入っていた。
その後、宗麟は茶の接待を受けたが、12・3歳の少女が、お茶や菓子を運んできた。さらに奥の間には、女房衆が控えていたらしい。まさしく女性の園だったのだ。
戦国時代の御奥の実態は、豊臣秀吉の大坂城以外についての情報は乏しいが、大奥の原型となったのはたしかである。江戸時代になって、その規模が拡張され、制度も洗練されたのである。
※注:前近代は「大阪城」ではなく、「大坂城」と表記します。