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荒木村重が織田信長に反旗を翻した納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(写真:イメージマート)

 東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、荒木村重が織田信長に反旗を翻した理由について考えてみよう。

 天正6年(1578)9月~10月にかけて、荒木村重の謀反が発覚した。織田信長は配下の福富秀勝らを村重のもとに送り説得させたが、応じることがなかった。

 信長は「不足があるならば申してみよ、村重に考えがあるならば、そのように申し付けよう」と述べ、改めて松井友閑らを村重のもとに遣わせた。そのとき村重は「野心などございません」と返答した。

 そこで、信長は人質として村重の母を差し出すことを条件にして、これまでどおりの出仕を認めたが、結局、村重の謀反の気持ちは変わらなかった。信長は重臣が寝返ったので、大いに焦ったに違いない。

 信長が村重の謀反を止めさせようと考えたのは、敵対する大坂本願寺、毛利氏、足利義昭の勢力に弾みを付けさせないためだった。三木城主・別所長治との戦いもはじまったばかりで、その後の苦戦が憂慮された。

 村重謀反の理由の結論を先に言うと、信長に従うよりも、毛利氏に与したほうが自分を生かせると判断し、一か八かの賭けに出たということが有力視されている。

 本願寺光佐が村重・村次父子に宛てた起請文には、村重の新知行については、毛利氏に庇護されている将軍・足利義昭に従うよう書かれている(「京都大学所蔵文書」)。村重は早い段階から謀反を検討しており、織田氏・毛利氏との間で二股を掛けていた。

 その後、村重は大坂方面司令官の地位を佐久間信盛に奪われ、同じく中国方面司令官の地位も羽柴(豊臣)秀吉に奪われた。村重は自らの将来に悲観して、謀反に踏み切ったのが真相ではないかといわれている。

 また、摂津下郡で支配を展開する村重にとって、村重に反した牢人衆(村重に没落させられた国人・土豪)などは脅威の存在だったとの指摘がある。同時に、各地で一向一揆が頻発する中で、百姓が本願寺と結び付き、摂津国内で一揆を起こすことも懸念材料となった。

 追い詰められた村重は信長と袂を分かち、本願寺や百姓らと連携する道を選択したというのである。それは当然、毛利氏や足利義昭と結ぶことを意味したという。

 高槻城主(大阪府高槻市)・高山右近や茨木城主(大阪府茨木市)・中川清秀ら村重の与力大名は、当初の段階で村重に従う意向を示していた。本願寺・毛利氏・足利将軍家に加えて、摂津国内の有力者から助力を得られることから、村重は謀反を起こしたと考えられる。

 しかし、その後の情勢は信長有利に傾いた。高槻城主・高山右近、茨木城主・中川清秀は信長に帰順した。同年11月6日の木津川沖海戦においても、織田方が本願寺、毛利氏を撃破した。この勝利により、信長は村重を引き留めず、徹底した殲滅を決意したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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