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【深掘り「どうする家康」】曲者ぶりを発揮した本多正信は、別に嫌われ者ではなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本多正信を演じる松山ケンイチさん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康に仕える本多正信が曲者ぶりを発揮していた。今回は本多正信の前半生をたどり、詳しく深掘りすることにしたい。

 松山ケンイチさんが演じる本多正信は、徳川家康の家臣からも「イカサマ師」と罵倒され、蛇蝎のごとく嫌われる存在だった。なんで、こんな嫌われ者が家康の妻・瀬名の奪還作戦にかかわるのか疑問に思われる方も多いと思うが、別に怪しい男ではない。

 天文7年(1538)、正信は俊正の子として誕生した。俊正は三河の武将で、もともとは松平家の重臣だった酒井忠尚の配下にあった。俊正の父・正定は松平清康(家康の祖父)に仕えていたといわれているが、その辺りについては詳しいことがわかっていない。

 永禄5年(1562)2月、家康は今川方の鵜殿長照が籠る上ノ郷城(愛知県蒲郡市)を攻撃した。戦いは家康が有利に進め、ついに長照は討ち取られてしまったのである。

 その際、長照の2人の子の氏長・氏次が家康方に捕らえられてしまった。そして、家康は駿府に捕らわれの身となっていた妻子を救い出すべく、今川方に2人との交換を求め成功したのである。なお、一連の動きの中で、正信が関与していたのか否かは不明である。

 一説によると、正信は桶狭間の戦いに出陣し、丸根砦の戦いで膝を怪我したという。以来、正信は足の怪我が完治せず、ずっと足を引きずって歩いていた。したがって、家康にとって正信は、忠臣の1人だったといえる。

 しかし、永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、正信はあろうことか一揆方に弟の正重とともに身を投じた。その後、一揆は家康方によって鎮圧されたが、正信はそのまま松平家に仕えるわけにはいかず、加賀国に出奔したという。

 正信は、十数年後に再び家康に仕えた。以後、家康の忠臣として重用され、江戸幕府の開幕後は側近として仕えるようになった。一時は家康を裏切ったが、復帰後の正信はその才覚でもって幕府の発展に貢献したのだ。

 松永久秀は「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と正信のことを評価した(『藩翰譜』)。おそらく、この評価がドラマでは曲者とキャラ付けされたのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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