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【その後の「鎌倉殿の13人」】鎌倉時代末期、鎌倉幕府を揺るがした2つの大事件

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鎌倉市。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。鎌倉時代末期、鎌倉幕府を揺るがした2つの大事件について詳しく、掘り下げてみよう。

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、承久3年(1221)の承久の乱で幕を閉じた。以後、幕府は安泰とはなったものの、大きな事件は起こった。鎌倉時代末期に焦点を当てて取り上げておこう。

1 霜月騒動

 弘安8年(1285)11月17日に勃発したのが霜月騒動(安達泰盛の乱、秋田城介の乱とも)である。事件の発端は、幕府で引付衆などを歴任した安達泰盛の子・宗景が源頼朝の子孫と称し、突然、源氏に改姓したことだった。

 これを知った内管領(北条氏の家人「御内人」の筆頭)の平頼綱は、宗景に「謀反の意あり」と讒言した。こうして、泰盛と頼綱は対立したが、その背景には御内人が勢力を拡大し、有力御家人を排除するという動きがあった。

 結果、安達一族は滅亡に追い込まれ、頼綱の権力が強大化した。同時に、泰盛に心を寄せていた御家人らも幕政から排除され、頼綱の目論見通りになったのである。

2 平禅門の乱

 永仁元年(1293)4月22日に勃発したのが平禅門の乱である。霜月騒動で強大な権力を掌中に収めた平頼綱は、9代執権・北条貞時の乳父だったので、内管領として幕政で大いに権勢を振るった。執権の地位は、形骸化していたのだ。

 あろうことか頼綱は、子の飯沼助宗を新将軍に擁立しようとしたといわれている。強い危機感を抱いた9代執権・北条貞時は、頼綱、助宗ら一族を滅亡に追い込んだ。これにより貞時は、頼綱から幕政の実権を奪い返したのである。

 いずれの事件も幕政を揺るがす大事件となった。幕府はこれ以前の元寇(モンゴルの日本襲来)への対応で疲弊しており、幕政にさまざまな矛盾が生じていた。こうした動きが鎌倉幕府の滅亡につながったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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