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【プレイバック「鎌倉殿の13人」】比企能員の乱後、無残にも皆殺しにされた比企一族の最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比企能員を演じた佐藤二朗さん。(写真:ロイター/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、最終回を迎えた。中でも比企能員の乱後、その一族はどうなったのか、その顛末を詳しく掘り下げてみよう。

 建仁3年(1203)9月2日、北条時政は謀反を画策した比企能員を討伐した。時政は能員を殺害したことに飽き足らず、ただちに比企一族の徹底した殲滅を指示した。

 能員が殺害されると、その従者はただちに比企一族と一幡(頼家の嫡子)のいる小御所に這う這うの体で逃げ帰り、その死を伝えた。比企一族はただちに時政らの攻撃に備え、小御所に籠った。

 比企一族が小御所に籠ったことを知った北条政子は、すぐに比企一族の謀反とみなし、軍勢を遣わして討滅するよう命じた。総大将を務めたのは、北条義時だった。以下、主だった御家人も出陣した。

 能員を失った比企一族は、能員の子の三郎、時員を中心として防戦に努めた。敵は大軍だったが、決死の反撃により、一時は幕府方から大勢の負傷者を出すようなありさまだった。

 ところが、畠山重忠が屈強な配下の将兵を繰り出すと、たちまち戦況は幕府方に好転し、比企一族は苦戦した。ここで比企一族は観念して館に放火し、一族のほとんどが自害して果てた。

 与一兵衛(能員の嫡子)は女装して館を逃げ出したが、捕らえられて殺害された。能員の舅の渋河兼忠(娘の夫が能員だった)も捕縛されて殺された。幕府方は、まったく容赦しなかったのである。

 その後も比企一族の探索は執拗に行われた。能員の側室らは、和田義盛にいったん預けられ、安房国に流罪となった。頼家の側近の小笠原長経、中野能成、細野四郎兵衛尉も能員に味方したとして捕らえられた。

 薩摩・大隅の守護を務めていた島津忠久は、母が丹後局(比企尼の娘)だった。そのような事情から、忠久は能員に連座して、2つの守護職を取り上げられたのである。

 北条一族が能員を討った以上、その一族を生かしておくわけがなかった。一族を徹底して殲滅するのは、ある意味で当然のことだろう。

 とはいえ、その主導権を政子が果たした点は、誠に興味深い。のちに時政は子の義時、政子と対立して失脚するので、そのことが影響したのではないか。

 それゆえ、『吾妻鏡』では比企一族の討滅を時政一人の手柄にするわけにはいかなかった。最終的に政子が比企一族の討滅を命じ、義時が先頭に立って戦わなくてはならなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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