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【深掘り「鎌倉殿の13人」】三浦胤義(義村の弟)は、なぜ承久の乱で朝廷に味方したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
承久の乱の舞台の京都。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回。承久の乱の場面は呆気なかったが、三浦胤義は朝廷に味方して敗れ去った。その点について、詳しく掘り下げてみよう。

 三浦胤義は義村の弟だが、生年は不詳。承久3年(1221)の承久の乱の時点では、30代半ばから後半の年齢だったと考えられる。兄の義村と幕府のためにたびたび出陣し、畠山重忠の乱、和田合戦では大いに軍功を挙げ、幕府に重用された。

 胤義は在京御家人として、洛中の警護にあたるなどした。一説によると、検非違使に任じられていたという。検非違使は京都の治安維持を司っており、極めて重要な職務だった。この二つの役割を務めていたことが、胤義の運命を狂わせた。

 後鳥羽上皇が北条義時討伐の兵を挙げたとき、頼りにしたのは西面の武士、西国の御家人そして在京御家人だった。いずれも義時に反感を抱いていたので、後鳥羽に味方した可能性もあるが、朝廷からの命令なので従ったとも考えられる。背景には、朝廷の権威があったのではないか。

 『承久記』によると、胤義の妻は先夫の源頼家の子(禅暁)を産んだが、頼家は北条時政に殺された。禅暁もまた義時に殺された。胤義はその恨みを晴らすため京都にやって来たと、藤原秀康に述べたという。

 しかし、『承久記』の諸本には、大番役の任期が終わったあとも京都に滞在したとか(鎌倉に戻らず不穏な動きを見せていた)、源家3代以外の将軍に仕える気はなかったとか、胤義が幕府を裏切った動機はいろいろと考えられる。決定的なものはない。

 胤義は、兄の義村を「日本国総追捕使」に任じることで、朝廷方に引き入れようとしたという。しかし、胤義の目論見は外れてしまい、義村は胤義が送り込んだ使者を追い返した。あろうことか義村は、その旨を義時に報告したうえで、幕府への無二の忠誠を誓ったという。

 胤義は朝廷方の大将軍として出陣したが、幕府方に敗れ、命からがら京都に逃げ帰った。胤義は後鳥羽に助けを求めるが、拒否された。後鳥羽は「知らぬ存ぜぬ」で押し通し、胤義は謀反を起こした謀臣として、捕えるよう院宣を発給したのである。

 その結果、胤義は子とともに自害して果てた。恐らく胤義は京都に居て、後鳥羽の命令を断り切れず、その場の雰囲気で朝廷に与したのだろう。朝廷の権威もあり、兄は味方してくれると楽観視していたかもしれなかったが、大誤算だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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