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【深掘り「鎌倉殿の13人」】ネットで話題の北条義時の最期は、自殺、他殺、毒殺?いずれが正しいのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条義時。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎え、最終回では北条義時が自害するのか、誰かに殺されるのかネットで話題沸騰中である。今回は義時の死について、詳しく掘り下げてみよう。

 北条義時が亡くなったのは、元仁元年(1224)6月13日のことである。義時は源平の争乱時から源頼朝に従い、その死後は幕府を守り立てた功労者だった。とはいえ、その死については、実に謎が多く、多くの説が残されている。

 『吾妻鏡』によると、同年6月12日頃から義時は病に苦しんでいたという。当時は医療技術が今のように進んでいなかったので、陰陽師に卜占を行わせたり、祈禱を行って回復を祈るしか術がなかった。しかし、翌6月13日、義時は亡くなったのである。

 義時は、脚気と霍乱に悩まされていたという。脚気とはビタミン欠乏症の一つで、重度になると慢性的なビタミンB1(チアミン)の欠乏により、心不全や末梢神経障害になるという。これが事実ならば、義時は長らく脚気に苦しんでいたことになる。

 霍乱とは、真夏に急に倒れたり(熱中症)、激しく吐き下しする病気のことである。急性胃腸炎、コレラ、疫痢などが該当するという。こちらは慢性的なものではなく、急性の病気である。『百錬抄』や『明恵上人伝記』は、義時が頓死(急死)したと記すので、急性の病である霍乱は信憑性があるのだろうか。

 『保暦間記』は、義時が思いがけず、小侍によって討たれたと記されている。これは、義時が承久の乱で行った悪行(人々がたくさん亡くなったことなど)によるものだというので、いささか信が置けない。天罰が当たったとでも言いたいのだろう。

 もっとも驚くべきは、義時の妻の「のえ」(伊賀の方)による毒殺説であろう。『明月記』安貞元年(1227)6月11日条によると、承久の乱で後鳥羽に与した尊長が捕縛された際、「のえ」が義時を毒殺したかのような発言をしたというが、真偽は不明である。

 これだけの説があるものの、いずれが正しいのかは、今となっては確認のしようがない。ただ、「トウ」が義時を暗殺するというのは、史実云々を抜きにすれば、もっとも面白い説なのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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