【深掘り「鎌倉殿の13人」】承久の乱前夜。北条義時と後鳥羽上皇が揉めた、深刻な2つの理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝死後の次期将軍問題で幕府が頭を悩ませていた。北条義時は後鳥羽上皇の皇子を迎えようとしたが、なぜうまくいかなかったのか、詳しく掘り下げてみよう。
建保7年(1219)1月に3代将軍・源実朝が公暁に殺されたが、実朝には後継者たる男子がいなかった。幕府は次の将軍をめぐって、頭を悩ませていた。そこで、後鳥羽上皇の子(親王)を将軍に迎えようとしたが、ドラマのとおりスムーズに進まなかった。
親王を迎えるのが難しくなったのには、いくつかの理由があった。その1つとしては、後鳥羽が寵愛した伊賀局亀菊の所領(摂津国長江荘・倉橋荘)の問題があった。
建保7年(1219)3月、後鳥羽は実朝の弔問を兼ね、使者の藤原忠綱を鎌倉に送った。忠綱は義時と面会すると、摂津国長江荘・倉橋荘の地頭がいうことを聞かないので、交代させてほしいと申し出た。長江荘の地頭職は、義時が源頼朝から拝領したものだという。
しかし、地頭職の問題は極めてセンシティブであり、幕府の存続にもかかわる大問題だった。後鳥羽の要求を受け入れると、幕府は御家人からの支持を得られなくなる。そこで、義時はこの要望を断るため、北条時房に千騎の兵を与えて上洛させた。
義時は断固たる態度を示すため、武力を誇示して後鳥羽の要望を断ったが、これがのちに裏目に出たのだろう。
もう一つの問題は、信濃の仁科盛遠の所領没収問題である。盛遠は御家人だったが、後鳥羽の北面の武士として仕えていた。義時は御家人が許可なく朝廷に仕えたことを咎め、盛遠が将軍から与えられた所領2ヵ所を取り上げたのである。
後鳥羽は盛遠を助けるため、義時に所領を返すよう要求したが、義時は断固として拒否した。当時、御家人と北面の武士を兼ねる例はあったので、後鳥羽には大いに不満が残った。
義時と後鳥羽の関係が険悪になったのは、所領をめぐる問題だった。義時は幕府を守るため、後鳥羽の要求を退けたのであるが、これがのちの承久の乱につながったのである。