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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時は、なぜ妻の「のえ」と仲が悪そうだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「のえ」を演じる菊地凛子さん。(写真:つのだよしお/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、公暁が鶴岡八幡宮で源実朝を殺害した。殺害後、北条義時は妻の「のえ」を疑う素振りを見せていたが、その点について詳しく掘り下げてみよう。

■源実朝の最期

 建保7年(1219)1月27日、源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に殺害された。ドラマのとおり、公暁は脇に潜んで、まず剣を持って供奉していた源仲章を殺し、続いて実朝に斬りかかったのである。

 本懐を遂げた公暁は逃亡したが、結局は三浦義村の手によって討ち取られた。実朝と公暁が亡くなることによって、源家の正統は3代で絶えてしまったのである。

 事件後、北条義時は妻の「のえ」と言葉を交わし、「のえ」が仲章と親しくしていたこと、もし「のえ」が不要なことを伝えれば斬っていたとも述べていた。何とも物騒な話である。

 それだけではない。かつて義時には、八重、比奈という妻がいた。義時は2人について「よくできた妻だった」と述べると、「のえ」が不機嫌になってしまった。義時は「のえ」に不満を持ち、「のえ」もまた義時に不満があったのか。

■義時と「のえ」の不和の原因

 実は、義時と「のえ」の間には、政村という実子がいた。一方、すでに義時には後継者と目していた、子の泰時がいた。「のえ」にすれば、我が子の政村を次期執権に据えたい気持ちはわからないでもない。

 元仁元年(1224)6月、義時は亡くなったが、その死因については謎が多い。一説によると、「のえ」が毒を盛って義時を殺害したとも伝わっているが、確証があるわけではない。2人には、何らかの確執があったのだろうか。

 義時の死の直後に勃発したのが、伊賀氏の変である。「のえ」ら伊賀氏の一族は、娘婿の一条実雅を将軍に据え、政村を執権の座に就けようとしたという(伊賀氏の変)。しかし、その目論見は見事に失敗した。

■まとめ

 義時と妻の「のえ」の関係が悪かったのかといえば、その事実を端的に示す史料があるわけではない。しかし、「のえ」が今後を見据えて、政村と実雅を執権、将軍の座に就け、安泰を図ろうとした可能性はあろう。

 そのことを実現するには、義時を排除して、泰時を失脚させる必要があった。とはいえ、2人の関係がどうだったのか、いつ悪くなったのかはわからないのが現状だ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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