【深掘り「鎌倉殿の13人」】実はひ弱じゃなかった。源実朝が示した政治への強い意欲
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝がひ弱なイメージで描かれている。それは事実なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■政治に意欲を示した源実朝
大河ドラマの中では、実にひ弱なイメージの源実朝。たしかに、実朝は和歌に傾倒しており、政治を放擲したかのようなイメージがあった。
承元3年(1209)11月、北条義時と大江広元は実朝に対して、「武芸に嗜み、朝廷を警護することが幕府が永続する基である」と説いた。2人が実朝の政治手腕を疑問視していたかのように思える。
しかし、近年の研究によって、そうしたマイナス・イメージはすっかり払拭されている。
承元3年(1209)4月、実朝は従三位に叙され、将軍親裁を志向した。政務機関の政所を開設し、将軍の意志を反映させた将軍家政所下文を発給したのは、その証左といえよう。
■続々と打ち出された政策
実朝は次々と政策を打ち出し、政治に強い意欲を示した。武蔵、駿河、越後などの田文(土地台帳)の作成を命じたのは、その一つだろう。
このほか、神社仏寺領興行令、諸国御牧興行令、東海道新宿建立令、京都大番役推進令、相模川橋修理令、諸国鷹狩禁断令など、次々と政策の実行を命じたのである。
『吾妻鏡』によると、実朝は『貞観政要』を読み、不断の努力を怠らなかったという。『貞観政要』とは、唐の太宗と群臣間に行なわれた政治論議をまとめたもので、政治哲学の書とされている。
■まとめ
その後も実朝は政治に注力し、ときに御家人の訴えに直接耳を傾け、自ら判断を下すこともあった。一方、政所を基点とした政治は変わりなく、政所別当の数を9人に増員した。
実朝は独断専行を避け、別当らの声を聞くことによって、将軍親裁を円滑に進めようとしたのである。