【深掘り「鎌倉殿の13人」】ドラマで語られなかった源実朝の「官打ち」とは何か
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝と北条義時との軋轢が注目だ。ところで、実朝は「官打ち」をされたというが、その点について詳しく掘り下げてみよう。
■源実朝の官歴
源実朝が頼朝の子として誕生したのは、建久3年(1192)8月のことである。頼朝の死後、兄の頼家が征夷大将軍になったが、のちに失脚し、実朝が兄の跡を継ぎ3代将軍に就任した。
建仁3年(1203)9月、実朝は征夷大将軍に就任し、従五位下に叙され、翌月には右兵衛佐に任じられた。右兵衛佐は、「佐(すけ)殿」と称された父・頼朝と同じ官位である。以降、実朝は信じがたい猛烈なスピードで出世した(表を参照)。
建保4年(1216)6月、実朝は権中納言に任じられると、その翌月には左近衛中将を兼任した。事態を憂慮したのは大江広元で、北条義時に実朝の異例なスピード出世について相談した。
広元は義時の使者と称して実朝のもとを訪れると、「子孫の繁栄のために征夷大将軍に専念し、ほかの職を辞してはいかがか」と諫言した。しかし、実朝は広元の助言をもっともとしながらも、「源氏の正統は自分の代で終わりなので、高い官職を得ることで家名を上げたい」と述べたという。
■「官打ち」とは
広元がなぜ実朝に征夷大将軍以外の職を辞すように勧めたのかは、今となっては不明である。実朝の答えを聞いた広元は、そのまま何も言わず辞したという。
ところで、実朝が公暁に暗殺されたのは、「官打ち」にあったといわれている。「官打ち」とは、分に不相応な高い官職を与えられることにより、逆に不幸な目に遭ってしまうことである。実朝は、最終的に右大臣にまで昇進した。
『承久記』によると、後鳥羽上皇は「打倒鎌倉幕府」を決意した際、実朝を「官打ち」にして不幸のどん底に陥れようとしたという。
■まとめ
とはいえ、お気付きの方も多いと思うが、「官打ち」は迷信であって、本当に不幸になるとは言えないはずである。実朝が暗殺された理由付けのため、後世になって付会されたものと考えるべきだろう。