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【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦で和田一族が滅亡後、戦後処理はどう行われたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和田義盛一族の墓と伝わる鎌倉市の和田塚。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田合戦がついに終結した。和田一族が滅亡後、戦後処理はどう行われたのか、諸史料に基づき詳しく掘り下げてみよう。

■和田合戦の戦後処理

 建暦3年(1213)5月2日にはじまった和田合戦は、翌日の夕刻には幕府勢の勝利に終わった。戦いによって、和田義盛以下の和田一族は、ほぼ壊滅したのである。

 首謀者の義盛は、江戸義範の郎党によって討ち取られた。子の義重、義信、秀盛も幕府勢に討ち取られ、朝比奈義秀、朝盛(義盛の孫)、佐久間家盛(朝盛の子)は、辛うじて逃げ出すことができたのである。

 義秀は500余の兵と6艘の船で安房国に逃れたが、その後の動静は不明である。一説によると、高麗国に逃れたというが、にわかに信じがたい。明確な根拠もないので、虚説であろう。

 朝盛は生き延び、承久3年(1221)に承久の乱が勃発すると、後鳥羽上皇に味方して幕府勢と戦った。家盛も朝盛とともに生き永らえたが、承久の乱では幕府勢に味方したのである。

 戦後、和田一族の234の首は、固瀬川(境川)の河川敷に梟首された。付け加えておくと、和田一族に加担した横山党の面々のうち、時兼、常盛は甲斐へ逃亡中に自刃して果てたのである。

 なお、鎌倉市には、和田義盛一族の墓と伝わる和田塚がある。

■威勢を伸長した北条義時

 一方、威勢を伸長したのが北条義時ら幕政の中枢にいる面々だった。義時は、義盛が任命されていた美作国守護をそのまま引き継いだ。大江広元は恩賞として、横山党が保持していた武蔵国横山荘を給与された。

 もっとも重要だったのは、義時が義盛の侍所別当を引き継いだことだった。すでに義時は政所別当に就任していたので、権力を掌中に収めることに成功した。文字どおり「執権」としての地位を確立したのだ。

■まとめ

 和田合戦によって和田一族は実質的に滅亡し、義時は権力を掌中に収めた。泉親衡の乱から和田合戦に至る流れは、仕組まれたものである可能性もあろう。

 義盛は勝てると思ったかもしれないが、三浦義村の裏切りさえも仕組まれていた可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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