【戦国こぼれ話】毛利元就の有名な「三矢の訓」の逸話は、単なる創作に過ぎなかった
毛利元就の「三矢の訓」にちなんだ「ちゃんこ鍋」が話題となっている。元就の有名な「三矢の訓」の逸話は事実だったのか、詳しく検証することにしよう。
■毛利元就の遺言
毛利元就は臨終間際に3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。3人の息子は簡単に矢を折ったので、次に束になった3本の矢を折るよう命じたが、誰も折ることができなかった。
元就は3本の矢を3兄弟に例え、「3人が結束すれば強靭になる」と説いた。これが有名な「三矢の訓」のエピソードであるが、この話には疑問がある。
元就の臨終前であるならば、長男の隆元はすでに亡くなっているからである。元就が亡くなったのは元亀2年(1571)6月で、隆元が没したのは永禄6年(1563)8月だった。
■話の元ネタ
話のつじつまが合わないので、「三矢の訓」のエピソードは後世の創作であるという説もあるが、この話には元ネタがあった。
弘治3年(1557)、元就は「三子教訓状」を3人の息子たちに残した。「三矢の訓」のエピソードは、この「三子教訓状」が元になっており、代表的な条文には次のようなものがある。
「元春と隆景は他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の2字を疎かにしてはならない。また毛利を忘れることは、全く正しくないことである」
「改めて言うまでもないが、3人の間柄がほんのわずかでも分け隔てがあってはならない。そのようなことがあれば、3人とも滅亡すると思え」
ほかにも条文はあるが、元就は毛利宗家を中心とし、3兄弟の結束を求めたのである。毛利家の結束の重要性を説いた、わかりやすいエピソードである。
元就は「三子教訓状」などを通じて、生前から3人の息子に対して、一族の結束を繰り返し説いていた。それゆえ、教えを守り続けた毛利家は、幕末維新期まで生き残ったのだろう。
■まとめ
とはいえ、「三矢の訓」を否定するのは、いささか野暮かもしれない。群雄割拠する中で、毛利家はしたたかにも生き残った。元就は「決して天下を望むな」と言い続けたといわれ、先見の明があったのかもしれない。