【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧氏事件後、人知れず消えていった北条時政と牧の方の最期
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件により、北条時政と牧の方は鎌倉から放逐された。その後、時政と牧の方はどうなったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■牧氏事件と北条時政・牧の方
源頼朝が亡くなると、北条時政は有力な御家人を次々と討伐し、幕府内における権勢を誇るようになった。しかし、時政の方法は周囲の理解を得られず、御家人や子の政子・義時の心が離れていった。
窮地に陥った時政は、挽回する策を思いついた。現職の将軍の源実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍に擁立しようと計画したのである(牧氏事件)。その計画に協力したのは、妻の牧の方だったという。
元久2年(1205)閏7月19日、政子と義時は時政らの陰謀に気付き、時政邸にいた実朝を自邸へと移した。この時点で、御家人の大半が政子と義時に味方したので、時政は危機的な状況になった。
時政と牧の方は抵抗を諦め、翌日には出家した。その後、鎌倉から伊豆へ放逐されたのである。朝雅は京都守護として京都にいたが、翌月に在京の武士らによって討伐された。
■時政と牧の方のその後
その後、時政と牧の方はどうなったのだろうか。伊豆に流された時政に関する記録は、非常に乏しくなる。鎌倉から追放されたのだから、いたしかたないだろう。
承元元年(1207)11月19日、時政は伊豆国願成就院(静岡県伊豆の国市)の南傍らに塔婆を建てて、供養したという(『吾妻鏡』)。目立つ記事は、これくらいである。
建保3年(1215)1月6日、時政は伊豆で亡くなった(『吾妻鏡』)。享年78。『吾妻鏡』によると、死因は腫物だったと書かれている。その記述はかなりあっさりとしており、寂しい感が残る。
牧の方は、藤原国通と再婚した娘(もとは平賀朝雅の妻)を頼って上洛した。その暮らしぶりは、贅沢だったと伝わる。安貞元年(1227)1月23日、牧の方は国通邸で時政の13回忌を催した。夫への愛情は薄れていなかったようだ。
以降、牧の方は『明月記』寛喜元年(1229年)6月11日条に登場する。この記事によると、牧の方の孫(藤原為家の妻)が牧の方の四十九日仏事を行ったとあるので、この年の4月22日に没したと考えられる。
■まとめ
以上の点から考えると、牧氏事件後に時政と牧の方は離縁したと考えるべきだろう。時政は孤独な晩年だったと推測されるが、牧の方は京都で贅沢な暮らしぶりだった。権勢を誇った時政の最期は、実に悲惨だったのである。