【戦国こぼれ話】織田信長は父の葬儀で、本当に位牌に抹香を投げつけたのか
安倍晋三氏の国葬が論争となっているが、織田信長は父の葬儀の際、位牌に抹香を投げつけたといわれている。この話について、詳しく検証することにしよう。
■若き頃の織田信長
青少年期の織田信長は「大うつけ」と称され、人々から失笑されることがたびたびであった。以下、『信長公記』の記述を見ることにしよう。
町を歩くときの信長は、人に寄りかかるようにして歩き、まるで肩にぶら下がっているかのようであったという。それだけでなく、立ったままで餅を口に入れ、栗・柿・瓜にむしゃぶりついていた。
ヘアスタイルは、髪を茶筅の形にして、萌黄色の糸や紅色の糸で巻いていたという。服装は湯帷子(浴衣のようなもの)の袖をとり、半袴を着用していた。腰には火打ち道具を入れて持ち運ぶ燧袋のほか、さまざまなものを吊り下げていた。
信長の家来は朱色の武具を身に着け、自身も朱鞘の太刀を下げていた。きっと目立ったことであろう。このような信長の姿は、まさしく異様であり、人々が「大うつけ」と呼ぶ理由になった。
■父・織田信秀の葬儀
天文21年(1552)に父・信秀が亡くなった際の逸話は、あまりに有名である(信秀の没年は諸説あり)。
『信長公記』によると、信秀の焼香に訪れた信長の服装は、長い柄の太刀と脇差しを稲穂の芯でなった縄で巻き、髪は茶筅で巻き立て、袴も着用していなかったという。
一番問題になったのは、焼香のときである。仏前へ進み出た信長は抹香をぱっと摑むと、仏前へ投げつけて帰ったことである。おそらく周囲の者は、この信長の行為に唖然としたはずである。
この解釈をめぐっては異説もあるが、極めて非常識な行動であったことはいうまでもない。葬儀の場でこのようなことをされると、親族一同が非常に迷惑であったに違いない。
ただ、このあとの『信長公記』の記述には、おもしろいことが書かれている。信長が世間によく知られた大うつけ(愚か者)と評判であったとしながらも、九州から来た葬儀の参列者の客僧が、「あの人物こそ、国を支配する人だ」と述べたという話を載せている。
九州の僧侶の言葉は、常識に捕らわれない信長を高く評価しているようであるが、何らかの作為を感じなくもない。
『信長公記』は信長の公式な伝記であり、信憑性が高いといわれているが、信長の将来の栄達を予見して、こうしたユニークな話をあえて交えたのかもしれない。
■まとめ
実は、青年期の信長の言動を詳しく書いた一次史料はない。『信長公記』がいかに信頼できる二次史料とはいえ、信長の行動はあまりに非常識すぎる。
「抹香投げつけ事件」は信長が革新的な人物だったことを示す逸話として有名であるが、あまりに荒唐無稽なので、疑ってかかる必要がある。