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【深掘り「鎌倉殿の13人」】畠山重忠を討った愛甲季隆は、8年後に非業の死を遂げていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
愛甲季隆の本拠だった厚木市。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠が愛甲季隆によって討たれたというナレーションがあった。8年後、季隆は非業の死を遂げたので、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■愛甲季隆とは

 愛甲季隆は相模国愛甲郡愛甲荘(神奈川県厚木市)を本拠とする武将であるが、生年は不詳。父は、武蔵武士の山口季兼である。季隆の前半生については、ほとんどわかっていない。

 治承4年(1180)12月、源頼朝の邸宅(神奈川県鎌倉市)が完成した際、弓始めの儀式が執り行われることになった。季隆は、関東武士を代表する弓の名手の1人に選ばれた。これは、非常に名誉あることだった。

 建久4年(1193)5月に富士の巻狩りが行われた際、季隆は源頼家(頼朝の嫡男)をサポートし、初めて鹿を射たことに貢献した。これにより、頼朝からお褒めの言葉を賜った。

 季隆は弓の名手であり、正月の御的始の射手を務めるなどし、幕府に貢献した。その姿は『吾妻鏡』に散見される。頼朝は、季隆を弓の名手として認識していた。

■和田合戦での戦死

 元久2年(1205)6月、畠山重忠の乱が勃発すると、季隆は重忠の討伐軍に加わった。

 そして、二俣川の戦いで、重忠を矢で射止めたのである。これが致命傷となり、重忠は戦死した。重忠の首は、北条義時に献じられたのである。これは、むろん大手柄だった。

 それから8年後の建暦3年(1213)5月、和田義盛が北条義時に戦いを挑んだ(和田合戦)。この戦いで、季隆は和田方に与して戦った。季隆が和田方に属した理由は、北条一族に遺恨があったとの伝承がある。

 しかし、季隆は兄の義久ともども戦死し、和田一族は滅亡した。この敗戦により、愛甲一族も滅亡したのである。

■まとめ

 残念ながら、ドラマに季隆は登場しなかったが、弓矢の名手だったことは有名だった。今も厚木市内には、愛甲季隆の関連史跡が少なからず残る。宝積寺には季隆の墓碑と伝わる五輪塔が、円光寺にも墓碑と伝わる宝篋印塔が残っている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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