【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条泰時が妻に迎えた、三浦義村の娘の意外なその後
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、北条泰時が三浦義村の娘を妻に迎えようとした。その経緯について、詳しく掘り下げてみよう。
■北条泰時の元服と結婚
建久5年(1194)2月2日、北条泰時は12歳で元服した。同時に、泰時は幼名の金剛から頼時(源頼朝の諱「頼」の一字を授けられた)へと改名した(以下、泰時で統一)。
元服を済ませた男子は、一人前として扱われた。もちろん、妻を迎える態勢も整ったといえよう。元服を行った際、頼朝は泰時に三浦義村の娘を娶るように命じた。むろん、主君の命なので、泰時は従うよりほかはなかった。
とはいえ、この婚約は泰時や北条一族にとって、決して悪い話ではなかった。三浦一族は、御家人のなかでも有力な存在だった。泰時が義村の娘を娶ることは、今後のことを考えると喜ばしいことだったのだ。
こうして建仁2年(1202)8月23日、泰時は義村の娘を妻として迎えた。その翌年、2人の間に誕生したのが時氏だった。あえて想像するならば、2人は幸せだったに違いない。
義村の娘は文治3年(1187)の生まれで、泰時と結婚したときは16歳だった。一方の泰時は、20歳になっていた。
■妻との離婚
ところが、しばらくして泰時は、義村の娘と離縁した。離縁した時期や理由は不明である。その後、泰時は安保実員の娘を妻とした。
義村の娘は、のちに佐原盛連と再婚して、3人の子を産んだ。天福元年(1233)に夫の盛連が亡くなると、義村の娘は出家した。以降、三浦氏の本拠の地名にちなんで、矢部禅尼と称されたのである。
宝治元年(1247)に宝治合戦(北条氏と三浦氏の戦い)が勃発すると、三浦氏は敗れて滅亡した。義村の娘が亡くなったのは、建長8年(1256)のことである。享年70。
■まとめ
ドラマのなかでは、仲睦まじく結ばれた泰時と義村の娘だったが、その後になって離婚した。この辺りをどう描くのか、今から楽しみにしておこう。