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【先取り「どうする家康」】徳川家康が真田信繁に散々に打ち負かされたのは事実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康は真田信繁に散々に打ち負かされたのか。(提供:イメージマート)

 来年の大河ドラマ「どうする家康」はキャストが発表され、すでに各地で講演会も催されている。今回は、徳川家康が真田信繁に打ち負かされたのは事実なのか、詳しく掘り下げてみよう。

■信繁の新兵器「地雷火」

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣が終盤に差し掛かると、豊臣方の主だった武将は次々と亡くなり、もはや徳川家康の勝利は確実だった。しかし、真田信繁は新兵器を作り出し、家康を恐怖のどん底に陥れたという。

 信繁は地雷火(「火竜の備」などともいう)を用いて、家康に火傷を負わせたといわれており、その話は後世に成った『厭蝕太平楽記』などに記されている。

 平野におびき出された家康は、陣を構えた辻堂の近くで小用を足していた。すると、突然大爆音が響き渡り、辻堂も地蔵尊も吹き飛ばされた。これが信繁による、地雷火を用いた焼き討ちであった。

 空中に飛び上がった火竜は焔硝(火薬)に引火し、まるで石矢火(銃)を放ったようだったという。こうして家康は体中に何箇所も火傷をして、命からがら逃げ出した。

 家康は途中で伊達政宗に助けられ、やがて徳川方の諸将も馳せ参じた。しかし、信繁配下の根津甚八、増田兵太夫に待ち伏せされ、また散々に打ち負かされた。

■逃げまくる家康

 進退窮まった家康は切腹しようとしたが、大久保彦左衛門に諌められ、住吉へ逃れようとする。しかし、再び信繁方の伏兵に大砲を撃ちこまれ、家康はわずか13名になって、我孫子村に向かおうとした。

 ここでも家康は豊臣方の伊藤丹後守に強襲されるが、徳川方と内通していた浅井周防守に助けられ難を逃れた。結局、家康は岸和田を経て貝塚まで逃亡し、子の秀忠も父と同じような酷い目に遭う。

 ほかの軍記物語では、地雷火は着弾すると同時に、破裂して異様な臭気が噴出し、徳川軍の兵を悩ませるというものや、着弾すると地雷火から虫が飛び出すという仕組みのものもある。いずれにしても、かなりの特殊兵器でだったのはたしかなようだ。

■地雷火はフィクションだった

 この話はよく知られたエピソードであるが、まったくのフィクションである。一連の話は『通俗三国志』などを素材として、創作された逸話にすぎない。

 信繁は一介の豊臣方の武将に過ぎなかったが、地雷火と奇策を用いて、家康、秀忠をぎりぎりまで追い詰めたという創作なのだ。

 一方の家康と秀忠は、信繁を上回る軍勢を率いながらも、その作戦に翻弄されて逃げまくるだけだった。信繁は惜しいことに、寸前のところで家康、秀忠を取り逃がしてしまう。

 大坂の陣では、徳川・豊臣両軍とも外国から大砲や鉄砲などを買い付けた。特に、豊臣方は秀吉の遺産を使い、外国から武器を仕入れていた。ただし、豊臣方が用いた火器の類は大砲や銃器であり、地雷火ではないだろう。

■まとめ

 いかに信繁とはいえ、短期間で地雷火という特殊な武器を発明したとは思えない。地雷火は信繁を際立たせるための、単なる創作上の武器にすぎなかったのである。

 信繁は「悲劇のヒーロー」であり、意外な作戦で天下人の家康を追い詰めた。それは創作に過ぎなかったが、人々は信繁の大活躍に拍手喝采した。こうした数々の創作が、信繁の虚像を作り出したのである。

【主要参考文献】

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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