村上海賊ミュージアムでは、巡回展「村上家ヒストリー」が開催されている。「戦国最強」と称された村上水軍はなぜ衰退したのか、深掘りしてみよう。

■「戦国最強」の村上水軍とは

 弘治元年(1555)9月、当時一介の国人領主にしか過ぎなかった毛利元就は、一大決心をして、陶晴賢と厳島で合戦に臨んだ。

 風雨をものともせず厳島に上陸した毛利軍は、陶晴賢を見事に打ち破り、毛利氏発展の契機をつかみ取った。このとき、毛利軍を支援して活躍したのが村上水軍である。村上水軍は一糸乱れぬ集団戦法を得意とし、射手船に藻切り鎌を付け、陶方の船の碇綱を切り放った。

 さらに火矢船・焙烙船で炎上させ、敵の戦意を喪失させた後、武者船で一気に切り込み、陶軍を殲滅したのである。その強さの秘密をもう少し確認してみよう。

 『合武三島流船戦要法』(森重都由編著)の「一武一最の巻」は、海上生活における心得を解説している。

 例えば「船に酔わざる薬」を紹介する箇所では、武鳥、木香、青皮、きこく、丁子、美草を粉末にし、生姜を煮た蜜でよく練って用いる、と解説されている。

 しかし、船に酔わない方法については、別に神秘な方法があり、口伝として残されているので、一切書き記さないという。

 同じく「兵粮丸」の紹介があり、仙台糒、氷砂糖、朝鮮人参を細かく砕いて粉末にし、丸く固めて麦の粉をまぶすとある。食料のないときにこれを食すれば、必ず飢えを凌ぐことができると記されている。

 兵粮が乏しくなったときには、松の皮一斤、人参一両、白米五合を粉末にし、それを練って蒸篭で蒸す方法も示している。

 以上のような極めて実用的なものもあったが、「天文の巻」では、敵国へ発向する日取り(敵を攻撃するのに、自国から出発する吉日を提示)や不成就の日(作戦が成功しない日)なども記載されている。

 「一武一最の巻」では兵士の心得が説かれ、鎧を着用せず、身を軽くして思う存分働くことをすすめている。万が一敵の襲撃にあっても、他の船に乗り移るなど、生き抜くことが志として肝要であると説く。

 このように、戦国期には口伝であったものが、やがては集成され一書をなした。口頭では伝わらないことも、書物にすれば誤りなく広く伝わるからである。マニュアル作成は、組織として共通認識を持つために不可欠だったのである。

■豊臣秀吉の登場

 天正16年(1588)7月8日、豊臣秀吉はいわゆる海賊禁止令を発布した。海賊禁止令は、「惣無事」つまり平和の実現を理念として全国統一を進めていた秀吉による「海の平和」の実現であった。

 秀吉は地域の領主に対して海賊の厳重な取締りを要請し、全国の船頭・漁師に対しても今後海賊行為をしないという誓紙の提出を求めたのである。これにより、村上水軍は一切の海賊行為が禁止され、その経済的特権が奪われた。

 ここで重要なのは、海賊禁止令の第1条に備後・伊予国の間の伊津喜島で盗船があったことが記され、この事件に村上水軍が関わっている可能性が高かったという。秀吉は海賊禁止令発布の前提として、村上水軍を強く意識していたと推測される。

 また、村上水軍は毛利氏と行動を共にすることもあったが、決して従属した形を取らなかった。村上水軍は厳島の合戦で、毛利方で活躍したが、その後は必ずしも従っていない。

 豊臣政権下においては、村上水軍のように自在な海賊衆は容認できなかった。秀吉は、「戦国最強」と称された村上水軍を恐れていたのであろう。

 その後、村上水軍を率いる村上元吉は、九州沿海で帆別銭を徴収し、従来の海上特権を行使したる。これに激怒した秀吉は、小早川隆景に元吉を厳罰に処すように依頼した。

 慌てた元吉は、秀吉の重臣戸田勝隆を介して大坂城へ登城し、すぐさま弁明を行った。許された元吉は、何とか切腹を免れたという。村上水軍が秀吉に屈服した瞬間であった。

■むすび

 以後、小早川隆景と毛利輝元は、元吉らに筑前移住を命じている。筑前は九州平定後、隆景に与えられたものであった。その背後には、秀吉の力が大きく影響していたことであろう。

 やがて、村上水軍は筑前に移り、ほどなく小早川家臣団に組み込まれ、瀬戸内海での権益を失ったのである。