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【戦国こぼれ話】明智光秀はひ弱な人物ではなく、恐ろしい人間性の持ち主だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀はひ弱だったのか?(提供:アフロ)

 6月2日、京都府福知山市で明智光秀のそっくりさんがPRのポスターに起用された。光秀の肖像画は一つしか残っておらず、どちらかと言えばひ弱な印象が残る。実際、光秀はどのような人物だったのだろうか。

■カギを握るブロイスの『日本史』

 明智光秀と言えば、織田信長から暴力を受けるなど、ひ弱なイメージがあるが、フロイスの『日本史』を一読すると驚くべき光秀像が浮かんでくる。『日本史』とは、どんな書物なのか。

 永禄6年(1563)、ルイス・フロイスはカトリックの男子修道会のイエズス会から派遣された。天正11年(1583)以降、ザビエルの来日以後の布教史をまとめた『日本史』の執筆を命じられた。

 『日本史』は全3巻(1巻は断片的に残存)で、天文18年(1549)から文禄3年(1594)までの間を記録している。フロイスは『日本史』の執筆にすべてを捧げ、ときに1日に10数時間も執筆したという。フロイスは大変な記録魔だったので、『日本史』の叙述は極めて精密で大部になった(原本は焼失)。

 『日本史』の評価はさまざまで、フロイスは戦国武将だけでなく、多くの出来事を書き留めたため、同時代の一級史料として評価されている。好奇心旺盛なフロイスの情報収集能力と観察眼は、群を抜いて優れていたといえよう。

 一方、宣教師としての偏見や日本の習俗に対する誤解などもあり、慎重に扱う必要があるとの指摘もある。いずれにしても、戦国時代の日本を知るうえで、貴重な史料であるのは疑いない。

■『日本史』に描かれた恐るべき光秀

 フロイスは『日本史』のなかで、光秀の本性について次のように書き残した。

自ら(光秀)が(信長から受けている)寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

 築城技術に優れていたというのは、同じ『日本史』に「明智は坂本(滋賀県大津市)と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と書かれていることから明らかだ。

 『日本史』には、続けて次の記述がある。いずれも、光秀の抜け目ない性格を指摘したものである。

 彼(光秀)は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼(信長)を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼(信長)の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自ら(光秀)は(そうでないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

 光秀は信長の配下にあって、相当気を遣って仕えていた。信長のお気に入りになるため、必死だったのだ。

 また、友人たちの間にあっては、彼(光秀)は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼(光秀)を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、(信長が)すでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入――それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した――とともに彼(光秀)に与えるに至った。

 光秀は策謀の限りを尽くし、信長のもとで大出世を遂げた。しかも財政的も極めて豊かだったことがわかる。信長は、自分の意向に沿ってくれる光秀を重用したのだ。

 これまで光秀は、教養豊かな優れた頭脳の持主でもあり、何ら苦労することなく、信長のもとでスムーズに出世した印象がある。しかし、光秀は譜代の家臣でなく、出自も貧しかったので、相当な苦労をして這い上がってきたと考えるのが適切なようだ。

 光秀は、まさしく「計略と策謀の達人」だったのだ。下から這い上がるには、強かさや狡猾さも必要だったに違いない。このフロイスの光秀評によって、従来の光秀のイメージは見事に覆された。光秀は武闘派の武将で、実に力強い人物だったといえる。

■むすび

 光秀が残酷な性格だったことは、波多野氏の八上城(兵庫県丹波篠山市)攻撃の際の書状でも確認できる。光秀は、敵兵を撫で切りするよう命じていた。とはいえ、戦国の世を生き残るためには、お人好しの性格でよいわけがない。ある意味で光秀の性格は、当時の戦国大名の平均的なものだったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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