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【戦国こぼれ話】本能寺の変決行!明智光秀は織田信長ではなく、本当に徳川家康を討とうとしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は織田信長ではなく、徳川家康を討とうとしたのか。(提供:アフロ)

 今から440年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討った。ところで、明智光秀が徳川家康を討とうとしたという説があるが、どうなのか検証しよう。

■『本城惣右衛門覚書』の記述

 明智光秀は京都に進軍した際、織田信長ではなく、本当は徳川家康を討とうとしたという説がある。そのことを記しているのは、『本城惣右衛門覚書』という史料である。

 『本城惣右衛門覚書』は、もと光秀に仕えた本城惣右衛門の覚書で、寛永17年(1640)に成立した。本能寺の変前後の状況をリアルに再現していることで、注目を浴びた史料である。

 しかし、『本城惣右衛門覚書』は、変後約60年を経て書かれたものである。記憶違いや何らかの意図がなかったのかなど、検証すべき点は多い。

 『本城惣右衛門覚書』の記述は、惣右衛門自身が思っていたことを書いたに過ぎないので、明智軍のほかの兵卒がすべてそう思っていたのかは断言できない。

 また、覚書は子孫のために自身の経歴や軍功を書き残したもので、一種の回想録である。当人の晩年に至ってから、執筆することが大半である。

 したがって、単純な間違いや記憶の誤り、または自らの軍功をアピールするための誇張などが含まれている可能性があることに注意が必要である。

■光秀が家康を討つ!?

 『本城惣右衛門覚書』によると、最初、惣右衛門は備中高松城(岡山市北区)の秀吉のもとに出陣すると聞かされていたので、急に進路変更になったことを疑問に思ったのだろう。

 その際、惣右衛門は主君の信長を討つとは考えがおよばず、家康を討つのではないかと思ったのである。なぜ家康なのかは、根拠が不詳である。少なくとも、信長が家康を敵視する理由が見つからない。

 これまでの「家康を討とうとした」と解釈した部分の原文は、「いへやすさま(家康様)御じゃうらく(上洛)にて候まゝ、いゑやすさま(家康様)とばかり存候」と書かれている。惣右衛門は、家康が上洛していたことを知っていた。

■単なる誤訳

 問題なのは、「いゑやすさま(家康様)とばかり存候」の解釈である。これを「家康を討つものとばかり思っていた」と解釈するのは、やや飛躍がある。

 現在では、「(中国計略に出陣中の)秀吉ではなく、家康の援軍に変更になった」との解釈もなされている。

 『本城惣右衛門覚書』の当該箇所が「家康を討とうとした」と解釈されたのは、フロイス『日本史』の「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」という記述に引きずられたものだ。

 『本城惣右衛門覚書』の当該箇所の解釈は誤っているので、光秀が家康を討とうとしたという説は成り立たない。同時に、フロイス『日本史』の記述内容も検証すべきだろう。

■むすび

 本能寺の変をめぐっては、さまざまな説があるものの、誤った説が見受けられるのも現実である。つぶさに史料を読解すると、間違いであることも珍しくないので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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