【戦国こぼれ話】織田信長が神になろうとしたので、本能寺の変は勃発したのか
今から440年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討った。織田信長が神になろうとしたので、本能寺の変は勃発したという説があるが。それが正しいのか検証しよう。
■織田信長の神格化
織田信長が神格化を志向したという説も、かつては話題になり、そのことが原因で本能寺の変が勃発したといわれてきた。
信長が神になると天皇を超えてしまうので、恐れた朝廷が光秀に命じて殺害させたというのだ。あるいは、光秀は信長の神格化が天に背く行為だったので、許さなかったという。
ルイス・フロイスの書簡(一五八二年十一月五日付フロイス書簡。『日本史』)によると、信長は天正10年(1582)の自分の誕生日に安土城下の総見寺(滋賀県近江八幡市)で、同所に置いた己の神体を拝むよう、貴賤を問わず人々に強要したという。参詣すれば80歳の長寿を得、また病気の治癒、富栄えるなどの功徳があったという。
信長は自ら神になろうとしたが、光秀は信長の自己神格化は天に背く行為として許さず、本能寺の変を起こしたという。同時に、信長が神になるということは、天皇を圧迫する行為として理解された。自己神格化は、朝廷黒幕説の一つの理由になったほどである。
信長の自己神格化に賛同する研究者は、少なからず存在した。信長が一向一揆と対決する状況下において、その後の幕藩制国家の中枢である「将軍権力」を創出する過程に結び付け、信長の自己神格化を評価した意見まである。
■乏しい裏付け史料
ところが、大きな問題となるのは、信長の自己神格化を記した史料はフロイスの書簡だけで、日本側の史料で記載したものはない。それゆえ、逆に疑問視する研究者がいるのも事実である。
信長の自己神格化を否定する研究者は、信長が宗教的に自らを権威付けようとした点は認める人もいる。それほどインパクトの強い説だった。
しかし、フロイスはキリスト教の立場から信長の神格化を述べたにすぎず、ほかに日本側に神格化を裏付ける史料がないので、信憑性は低いと評価する向きもある。「盆山」と称する石を神体とする『日本史』の記述に疑問を呈し、その信憑性を疑うべきとの指摘すらある。
■無神論者ではなかった信長
信長は無神論者であるといわれるが、実際はそうではなかった。彼も当時の人々と同じく信心深く、禅宗を信仰していたことが明らかになっている。
また、信長は各地の寺社に所領を寄進、安堵するなど、普通の戦国大名と変わらない宗教政策を行っていた。信長が無神論者であるというのは大きな誤解であり、現在では誤りとされている。
信長が無神論者といわれたのは、比叡山の焼き討ち、大坂本願寺との長年にわたる抗争に原因が求められた。中世の人々は神仏を恐れていたが、信長は臆することなく、果敢に戦ったということになろう。
しかし、この指摘も大きな誤解である。先述のとおり、信長は寺社を庇護したが、比叡山や大坂本願寺は宗教者としての本分を忘れ、信長に戦いを挑んだので戦わざるを得なかった。大坂本願寺は何度か信長に詫びを入れて許されたが、また挙兵するありさまだった。
信長は自身に従う宗派を保護し、世俗権力が宗教権力に優越するという方針を宗教政策の根本に据えたと考えられる。したがって、信長が無神論者であるという指摘は当たらない。
■むすび
本能寺の変の原因を説く諸説は、しっかりとした史料的な根拠がなかったり、思い込みだったりすることが珍しくない。一見すると納得してしまうかもしれないが、よく調べると誤解であることも多いのだ。