【深読み「鎌倉殿の13人」】平家がついに都落ち! 木曽義仲に負け続けた平家の戦犯3人
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第14回では、木曽義仲に負け続けた平家の武将があまり描かれていなかった。実際は誰が戦犯だったのか、その点を深く掘り下げてみよう。
■強かった木曽義仲
以仁王の「打倒平家」の令旨を受けた木曽義仲は、たちまち平家の勢力を一掃した。なかでも寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いでは、義仲が圧倒的な勝利を収め、入京を実現する決定打となった。以下、義仲に敗北を喫した戦犯を3人挙げることにしよう。
1 平維盛(1157?~84?)
平維盛は、重盛の長男である。維盛は平家の嫡流だったので、早くから出世を遂げた。一方、維盛は大変容姿が美しく、舞いを舞わせたら天下一品だったと言われている。しかし、戦いは苦手だったようだ。
治承4年(1180)4月、維盛は大将軍として源頼朝を討伐すべく東上したが、富士川の戦いで敗北を喫した。一説によると、水鳥の羽音に驚き敗走したというが、それは誇張にすぎないだろう。ここから、平家は衰退の一途をたどった。
寿永2年(1183)5月、維盛は北陸で強制を誇っていた義仲の討伐のため出陣するが、あっけなく大敗北を喫した。逃げ帰った軍勢も乏しく、平家が都を捨てる大きな要因となった。
2 平行盛(?~1185)
平行盛は、基盛(清盛の次男)の子である。父の基盛が早くに亡くなったので、行盛は代わって出世した。行盛は播磨国の知行国主を務め、正五位上・左馬頭に叙位任官された。
行盛は和歌の名手であり、藤原定家からその手ほどきを受けた。平家が都落ちする際、行盛は自らが読んだ和歌を定家に託した。その和歌は、のちに『新勅撰和歌集』に入集した。
行盛は維盛に従って、倶利伽羅峠に出陣した。大敗を喫したのは先述のとおりだが、その後の戦いでも連戦連敗で、まったく良いところがなかったのである。
3 平忠度(1144~84)
平忠度は忠盛の子で、清盛の弟である。忠度も行盛と同様に、和歌の名手として知られていた。平家が都落ちする際、師である藤原俊成に和歌を託したのは有名な話である。その和歌は、のちに『千載和歌集』などに収められた。
忠度は治承4年(1180)の富士川の戦いで敗北。翌年の墨俣川の戦いでは、源行家の軍勢を蹴散らした。しかし、倶利伽羅峠の戦いでは義仲に敗れ、這う這うの体で都に逃げ帰った。
■むすび
むろん、平家の都落ちは彼ら3人に押し付けるべきではないが、戦い巧者で地の利があった義仲に勝利の女神は微笑んだ。ここから平家には、過酷な運命が待ち構えていたのである。