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【深読み「鎌倉殿の13人」】焦った平清盛の愚行。平重衡が行った南都焼き討ち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
焼き討ちに遭った東大寺。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、平重衡が行った南都焼き討ちを省略していた。重要な事件なので、この点を深く掘り下げてみよう。

■苦戦を強いられた平家

 治承4年(1180)に源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、平家は苦戦を強いられた。各地で打倒平家の挙兵が相次ぎ、対応を迫られたのである。反平家の勢力は、隣国の近江国にまで迫っていた。

 同年12月18日、平清盛は幽閉していた後白河法皇に再び政務をとることを懇請し、美濃・讃岐の2ヵ国を法皇の知行国として献上した。

 その前月、清盛は福原京に都を移していたが、頼朝の対応に追われ、再び京都に戻っていた。清盛は政権を後白河に返上したうえで、全精力を頼朝をはじめとする反平家の勢力の追討に注ぎ込んだのである。

 実は、反平家の態度をとるのは各地の豪族だけではなく、寺院も含まれていた。松殿基房配流事件に反発した興福寺、後白河と関係が深い園城寺などは、その代表であろう。清盛は一切の聖域をもうけず、彼らとの戦いにも挑んだ。

■平清盛の南都焼き討ち

 同年12月、清盛の命を受けた子の重衡は、まず園城寺に攻め込み焼き討ちにした。その後、勢いに乗る重衡は、大軍を率いて南都を討伐すべく大和国に向かった。

 同年12月27日、南都の衆徒は奈良坂などで重衡の軍勢を待ち受けた。重衡は山城路と河内路の二つのルートから、約4万騎の軍勢で攻め込んだ。こうして両軍は、南都を舞台にして華々しい攻防戦を繰り広げた。

 翌12月28日夜、重衡の軍勢が放火したので、興福寺・東大寺は紅蓮の炎に包まれた。その結果、南都の衆徒の約200が討ち死にし、敗北を喫したのである。

 重衡の放火をめぐっては、配下の者が明かりを灯した際、炎が風に煽られて、思いがけず燃え広がったという説がある。つまり、放火は意図的ではなく、予期せぬ偶然だったということである。

 一方、放火は重衡が意図的に行ったという説もある。おそらく、重衡は衆徒を脅すために、戦術として局地的な放火をしたのだろうが、予想外に燃え広がったということになろう。

■むすび

 重衡の南都焼き討ちは成功したが、これにより寺院勢力は完全に平家を見放し、敵対することになった。寺院は平家を仏敵であるとし、以後も抵抗することにした。

 南都焼き討ちについては、京都の公家も苦々しい思いで見ていた。公家は南都焼き討ちを平家の暴挙とし、徐々に平家から心が離れていったのである。

 南都焼き討ちで、平家や清盛は仏敵の汚名を着せられただけでなく、まったくの四面楚歌の状態になり、徐々に衰退していった。その点は、追々取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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