クジで後継者選び、恐怖政治… 政治手腕が残念すぎた室町幕府の将軍5選
室町将軍と言えば、最近の研究で見直しがされ、再評価されている。とはいえ、政治手腕に長けておらず、残念な結果に終わった将軍もいるので、その5人を紹介することにしよう。
■足利義持(1386~1428)
3代将軍・義満の死後、家督を継承したのは子の義持(4代将軍)である。義持は義満の生前に征夷大将軍の地位を譲られていたが、実権は義満が掌握したままだった。義満の死後、義持は日明貿易の中止、北山邸の破却・移転などを行った。
また、南北朝が交代で皇位を継承する約束を反故にするなど、ことごとく義満の政策を否定する。
義持は早くして子の義量(5代将軍)を亡くし、自身が死ぬまで後継者を指名しなかった。その結果、後継者はクジで選ぶことになり、義教が選ばれたのである。
後継者を指名しなかったことは、その後の幕府政治に暗い影を落とした。それが大きな残念の理由である。
■足利義教(1394~1441)
義持の死後、籤で後継者に選ばれたのが義教(6代将軍)だ。義教は非常に猜疑心が強く、専制的な権力を構築することに腐心した。
一方、気に入らない人がいれば、武家、公家、僧侶を問わず、厳しい処罰を科した。まさしく「万人恐怖」の世だった。
嘉吉元年(1441)、「次は俺の番だ」と疑心暗鬼になっていた赤松満祐は、義教を自邸に招いて暗殺した(嘉吉の乱)。やられる前にやったのだ。
その後、満祐は幕府軍によって討たれるが、幕府の権威はますます失墜した。それが、義教の残念な理由である。
■足利義政(1436~90)
7代将軍・義勝(義教の子)の死後、あとを継いだのが義政である。義政の存在は軽んじられ、母の重子、乳母の今参局らが政治的な実権を握っていた。
陰で政治を操った今参局、烏丸資任、有馬持家の3人は、ともに「ま」の字が名前につくことから、「三魔」と称された。
康正元年(1455)、義政は日野富子と結婚したが、富子は兄の勝光や政所執事の伊勢貞親、そして季瓊真蘂(きけいしんずい)らと幕政に関与したため、義政は政治に意欲を失った。
寛正2年(1461)、寛正の大飢饉が勃発すると、義政は梅津に山荘を造営し、後花園天皇から戒められるほど暢気だった。
応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が勃発する。義政は戦争の終結に消極的で、戦乱は10年の長きにわたったのである。
義政は東山に山荘を造営し、東山文化という独自の文化を生み出したが、政治的手腕はほとんど評価されなかった。あまりに残念すぎた。
■足利義尚(1465~89)
義政の在職中、将軍職を譲られたのが義尚である。しかし、義政はなかなか実権を譲らず、権力は二重構造化していた。
義尚は大変な勉強家で、一条兼良が義尚のために執筆した帝王学の書『樵談治要』、『文明一統記』を読んでいたほどだ。
長享元年(1487)、義政は近江の六角高頼を討つべく出陣した。しかし、出陣中の義尚は酒浸りとなり、おまけに女性との荒淫を重ねた。
その結果、病気となり、陣中で没したのである。勉強家だったのは評価できるが、あまりに最期が残念すぎた。
■足利義昭(1537~97)
足利義昭はもともと僧侶になっていたが、兄の義輝が横死したので、室町幕府の再興を志した。永禄11年(1568)、義昭は織田信長の助力を得て入京。晴れて、幕府を再興する。
しかし、義昭は政治路線をめぐって信長と対立し、京都から放逐された。
天正4年(1576)以後、義昭は毛利輝元の支援のもと、上杉氏、武田氏らに「打倒信長」の挙兵を呼び掛けた。
天正10年(1582)6月、信長は本能寺の変で横死するが、義昭が将軍に復帰することはなかった。その後、義昭は豊臣秀吉の御伽衆になったのである。
義昭は将軍に復帰すべく、あの手のこの手を使うが失敗。あまりに残念だった。
■まとめ
冒頭で記したとおり、近年、室町将軍の再評価が進んでいる。関連書籍が多数刊行されているので、ぜひ読んでみてはいかがだろうか?
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】