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1度の謀反で信長と秀吉が窮地に… "政治力がえげつない"戦国最強の偉人5選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
六文銭。真田家の家紋である。(提供:イメージマート)

 今年は総選挙があり、自民党や立憲民主党などの政党も党首が交代した。ところで、政治力と言えば、単に政策だけでは評価できず、大胆な行動力や交渉術なども含まれよう。今回は年末企画として、政治力がえげつなかった戦国最強の人物を5人取り上げてみたい。

■別所長治(1558~80)

 別所長治は、播磨三木城(兵庫県三木市)主だった。織田信長の台頭とともに、その配下に加わった。

 しかし、天正5年(1577)の羽柴(豊臣)秀吉の中国計略を機にして、翌年の2月に毛利方へと寝返った。これは、信長に敵対する毛利氏、足利義昭の熱心な誘いに応じたからだった。

 長治が毛利方に寝返ると、それまで信長に従っていた播磨国内の国衆も、一斉に毛利方に与した。これも、播磨国内で大きな政治的な影響力を保持していた長治の誘いによるものだろう。長治が謀反を起こすと、たちまち信長と秀吉は窮地に陥った。

 しかも長治の政治力が優れていたのは、天正8年(1580)1月までの約2年にわたり、秀吉の兵糧攻めに耐え抜いたことだ。この間、長治はありとあらゆる方法を使って、城内に兵糧を持ち込んだようだ。それだけの人脈や政治力があったのだろう。

■本願寺顕如(1543~92)

 本願寺顕如は、一向宗(浄土真宗)の本願寺第11世である。顕如がその政治力を発揮したのは、織田信長との約10年にわたる戦争である(石山戦争)。

 元亀元年(1570)9月にはじまった戦争は、天正8年(1580)4月に大坂本願寺を退去するまで続いた。

 顕如の軍事力の中核は、一向宗の門徒たちだった。しかし、門徒だけでは兵卒としては、いささか頼りない。

 そこで、顕如は信長と敵対する浅井長政、朝倉義景、毛利輝元、足利義昭らと連携し、戦いを有利に進めようとした。また、負けそうになると信長に詫びを入れ、それを破ることを繰り返した。

 最後は朝廷の斡旋により、信長と和睦を結んだが、それは子の教如の反対を押し切った上での決断だった。さすがに、引き際も心得ていたようだ。

■足利義昭(1537~97)

 足利義昭は、室町幕府最後の将軍(15代)だった。永禄8年(1565)5月、兄の義輝が三好三人衆に殺害されると、興福寺一条院(奈良市)を出奔して還俗。

 以後、各地の大名に幕府再興のため、協力を呼び掛けた。この時点から、類稀なる行動力と政治力を発揮していたのである。

 永禄11年(1568)、義昭は織田信長に推戴されて、念願の入洛と幕府再興を果たした。以後も義昭は上杉謙信と武田信玄との抗争、毛利輝元と大友宗麟との抗争などの解決に乗り出し、進んで和睦を勧めた。

 天正元年(1573)、義昭は信長と決裂すると、交渉力を発揮して、上杉謙信、毛利輝元、大坂本願寺や諸大名に「打倒信長」の檄を飛ばした。

 その粘り強さや交渉力には驚嘆するが、義昭の願いはかなわず、将軍に復帰する夢は断たれたのである。

■真田昌幸(1547~1611)

 真田昌幸は、上田城(長野県上田市)主だった。その優れた手腕は武田信玄に評価され、「我が目」(信玄の目の代わりになるということ)と称されるようになった。その真骨頂は、類稀なる先見性にあった。

 天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、織田信長に仕えた。信長が本能寺の変で横死すると、徳川家康の配下に収まった。変わり身も早かったのだ。

 しかし、家康が昌幸の沼田城(群馬県沼田市)を北条氏直に与えようとしたので、今度は上杉景勝と結んで、家康に対抗した。昌幸が「表裏の人」と称される所以である。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、上田城で徳川秀忠の軍勢をよく食い止めたが敗北。最後は先見性が発揮されず、運に恵まれなかったようだ。

■小早川秀秋(1582~1602)

 小早川秀秋は、筑前名島城(福岡市東区)主だった(最後は岡山城主)。慶長5年(1600)7月、石田三成ら西軍が徳川家康に対して挙兵すると、秀秋はいずれに与するか態度を明確にしなかった。

 その後、秀秋は東軍の黒田長政らから東軍に与するよう説得されるが、それでも態度は明確ではなかった。結局、秀秋は合戦前日の9月14日、家康と和睦を結び東軍に身を投じた。

 この間の事情には不明な点が多いが、秀秋は東西両軍のいずれが有利なのか、最後のギリギリまで見極めていたのではないだろうか。これなども一種の政治力と評価されよう。

■まとめ

 政治力と言えば、政治や経済にまつわる政策や法制などが思い浮かぶが、行動力や交渉術なども評価の指標になる。今回挙げた5人は、そういう意味で「えげつない」政治力があったと評価されよう。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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