【戦国こぼれ話】織田信長を恐怖のどん底に陥れ、「丹波の赤鬼」と称された赤井直正とは
丹波大納言小豆を使った赤飯「赤鬼飯」は、「丹波の赤鬼」と称された赤井直正にちなんでいるというニュースがあった。
あの織田信長も恐れ、武田勝頼が武勇を高く評価した赤井直正とは、いったい何者なのか?
■赤井直正の前半生
享禄2年(1529)、赤井直正は時家の次男として誕生した。
時家の嫡男は家清で、合戦のたびに大いに軍功を挙げるほど優秀だったという。
当時、嫡男が家督を継ぐのが慣習だった。そこで、次男の直正は同族で丹波黒井城(兵庫県丹波市)主の荻野氏の養子となり、荻野を姓としたのである。
直正の妻は同じ丹波の国衆・波多野元秀の娘だったという。
ところが、のちに直正は妻と死別し、近衛前久の妹を後妻として迎えたという。
しかし、摂関家の近衛家と赤井家では家の格が違いすぎるので、事実か否か大いに疑問が残る。
その後、外叔父の荻野秋清が反旗を翻したので、直正はこれを討って黒井城を奪取した。
以後、直正は「悪右衛門」と称し、「丹波の赤鬼」と称され恐れられたのである。
こうして直正は、荻野氏の盟主となった。「悪」には文字通り「悪い」という意味もあるが、性質、能力、行動などがあまりに優れていることを恐れていう意味もある。
■織田信長との対決
永禄11年(1568)11月、織田信長が足利義昭を推戴して上洛すると、畿内の政治情勢は一変した。
信長は、日の出の勢いだった直正の行く手を阻もうとしたのである。
ところが、当初の直正は信長に徹底抗戦することなく、素直に配下に収まった。
永禄13年(1570)3月、信長は忠家(家清の子)に家督の安堵状を与えた。
これこそが臣従の証で、赤井氏による丹波奥三郡の支配は信長に認められたのだ。
信長と義昭は互いに協力しながら政治を行っていたが、2人の関係は徐々に悪化し、ついに元亀4年(1573)1月になって関係が破綻した。
2人の抗争が表面化すると、直正は信長から離反して直ちに義昭に与した。
一時、直正は義昭方として京都に出陣する風聞が流れたが、結局は噂だけに止まり実現しなかった。
以降、直正は反信長の旗幟を鮮明にした。
天正元年(1573)8月、義昭は直正に書状を送り、梅仙軒なる者が西国に下向するので、路地を問題なく通ることができるよう依頼した(「赤井文書」)。
義昭が直正を頼りにしていたのは明らかだ。
義昭が毛利氏の庇護を求め、備後鞆(広島県福山市)に向かったのは天正4年(1576)のことである。
梅仙軒は、義昭の使者として毛利氏のもとに向かったのだろう。
■「名高キ武士」と称された直正
天正2年(1574)に比定される2月6日付の武田勝頼の書状(直正宛)は、非常に注目すべきことが書かれている(「赤井文書」)。
勝頼の書状によると、前年の10月17日に直正は勝頼に書状を送っていたことが判明する。
また、勝頼が到着した直正の書状を読んだこともわかる。
直正の書状は使者が携えたもので、使者が勝頼に口頭で内容を説明したという。
この勝頼の書状は、直正からの書状に対する返事なのである。
勝頼は直正が信長と戦っているという報告を受け、その武勇と戦功を褒め称えた。
そのうえで、しばらくしたら信濃の境の雪も解けるであろうから、尾張・美濃に攻め込み信長と合戦に及ぶので、ご安心いただきたいと述べている。
直正は勝頼と協力し、信長を討ち滅ぼそうとしていたのだ。
こうした直正の武勇は後世に伝わり、直正が『甲陽軍鑑』で「名高キ武士」と高く評価された理由なのかもしれない。
■まとめ
赤井直正といっても、あまり知られていないかもしれない。
直正は信長を恐れさせただけでなく、勝頼からも厚い信頼を得ていた。
その武勇は後世に伝わり、「名高キ武士」と高く評価されたのだ。