【戦国こぼれ話】明智光秀の父の名前は、系図により違っていた!? 5つの系図を再検証
京都府福知山市は、地元ゆかりの明智光秀のそっくりさんを募集しているという。ところで、光秀の系図はいくつか知られているが、そこに書かれた父の名前はバラバラである。また、光秀の生年も諸説ある。関係する5つの系図を検証することにしよう。
■明智光秀の父の名前
明智光秀の父については、数多くの明智氏の系図に触れられている。次に、代表的な系図を挙げることにしよう。
①光綱――『明智系図』(『系図纂要』所収)、『明智氏一族宮城家相伝系図書』(『大日本史料』11―1所収)。
②光隆――『明智系図』(『続群書類従』所収)、『明智系図』(『鈴木叢書』所収)。
③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。
上の系図によると、光秀の父の名は、①光綱とするもの、②光隆とするもの、③光国とするもの、の3つに分かれており確定していない。
そうなると、光秀の父の名前が一次史料に登場するかがカギとなる。
しかし、彼ら3人は、一次史料で存在を確認できない。
裏付けとなる一次史料がない以上、3人のうち誰が光秀の父なのかを考えても、正確な結論に至るとは思えず、意味のない作業かもしれない。
■『続群書類従』所収の『明智系図』
史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外に父祖の名前が判然としないケースが多い。
系図によってこれだけ光秀の父の名前が違うのだから、その背景を改めて検証する必要がある。
上の『明智系図』のうち、『続群書類従』所収の『明智系図』については、上野沼田藩の土岐氏に伝わる「土岐文書」の写しが書き写されている。
このように系図や家譜類に古文書が記載されていることは珍しくなく、系図の信憑性を高めることになる。
『明智系図』と「土岐文書」などを照合すると、光秀の祖父にあたる頼典とその弟の頼明まで存在を確認できるが、光秀の父の光隆は一次史料で確認できない。
この点は、不審と言わざるを得ず、『明智系図』がいかに「土岐文書」を写し取っているとはいえ、光秀の父を安易に光隆とすべきではないだろう。
現時点で、光隆以降の系譜は、不明と言わざるを得ないのだ。
■光秀の誕生年
実は、光秀の誕生年についても、諸説あって定まらない。
『続群書類従』所収の『明智系図』には、享禄元年(1528)3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したとある。
母は若狭守護の武田義統の妹と、名族にふさわしい母の家柄になっている。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、光秀が享禄元年(1528)8月17日に誕生し、石津郡の多羅(岐阜県大垣市)で誕生したと記す。
ただし、父は進士信周、母は光秀の父・光綱の妹だったと記している。
病弱だった光綱は、40歳を過ぎても子に恵まれなかった。
そこで、光綱の父・光継(光秀の祖父)は光秀を光綱の養子とすることを決意し、家督を継がせることにしたという。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、光秀が養子だったとする。
進士信周については不明であるが、奉公衆の出身であり、幕府との関係を示唆する。
また、光秀の譜代の家臣には進士貞連がおり、光秀の死後は肥後藩の細川興秋(忠興の次男)に仕えた。
■享禄元年誕生説が有力か?
誕生した日付を除けば合致しており、ほかの系図もおおむね享禄元年誕生説を唱えている。
『明智軍記』も、享禄元年誕生説であるが、これらの諸系図の記載を全面的に受け入れるわけにはいかない。
たとえば、光秀の母の兄とされる武田義統の誕生年は、大永6年(1526)である。
義統の妹はさらに若いはずなので、明らかに年代的に矛盾している。
光秀が享禄元年(1528)生まれであるならば、義統の妹は光秀の母であるはずがない。
なぜこうなったのか理由は不明であるが、ある程度の推測は可能だ。
義統の子・元明は天正10年(1582)6月の本能寺の変で光秀に与した。
もしかしたら、そういう関係から光秀と武田氏を強引に結び付けようとしたのかもしれない。
■まとめ
光秀は謎が多い人物とされるが、系図を見ただけではますます謎が深まるばかりだ。
光秀は父どころか、生年すらはっきりしない人物なのだ。
この点を明らかにするには、良質な史料の出現を待つしかないだろう。