連日のようにニュースになるのが、パワハラの件だ。ところで、織田信長は怒り狂うともはや制御不能で、人を殺してしまうこともあったという。今回は、その中から話題を取り上げることにしよう。

■女房衆皆殺し事件

 天正9年(1581)4月、織田信長は居城の安土城(滋賀県近江八幡市)を出発し、琵琶湖の竹生島に参詣した。奈良時代に行基上人が四天王像を安置し、竹生島の信仰がはじまったといわれている。

 女房衆は信長が竹生島へ行くならば、帰りは家臣の羽柴(豊臣)秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)に1泊するに違いないと考えた。

 そこで、女房衆は安土城近くの桑実寺(滋賀県近江八幡市)へ出掛け、大いに羽を伸ばしたのである。

 しかし、これが悲劇のはじまりだった。なんと、女房衆の予想は見事に外れて、信長はその日のうちに安土城に帰還したのである。

 信長は帰って来ると、女房衆がいないので激怒。彼女らを縛り上げて連れてくるよう、桑実寺の長老に命じたのである。

 驚いた女房衆は、長老に信長への助命嘆願を乞うた。すると、信長はますます怒り狂い、女房衆だけでなく、長老までも殺害したのである。

■僧・無辺殺害事件

 天正の頃、無辺なる諸国行脚の客僧があらわれ、不思議な秘法を用いて次々に奇跡を起こした。

 この噂を聞きつけた人々は、その功徳を授かろうとした。

 信長は無辺の噂を耳にし、「ぜひ会いたい」と希望した。

 こうして天正8年(1580)3月、安土城(滋賀県近江八幡市)の御厩へ無辺を招いたのである。ここから、信長は無辺に次々と質問を浴びせかけた。

 信長はまず、無辺の生国(生まれた国)を尋ねた。すると、無辺は「無辺(どこでもない)」と答えた。

 次に、信長が「唐人(中国人)か天竺人(インド人)か?」と尋ねると、無辺は「修行僧」とだけ返答した。

 すると、信長は「人間の生国は、三国(唐・天竺・日本を指し世界の意味)以外にはないはずだ。どこの生まれでもないとはおかしいではないか」と強い疑念を示したのである。

 次に信長は「さては化け物か! それならば、火で炙ってやろうか」と言うと、家臣に火の準備をするように命じた。

 この言葉を聞いた無辺は驚き、「出羽の羽黒山の者です」と生国を答えた。

 無辺の回答を聞いた信長は、「お前は弘法大師の生まれ変わりだと言い、あっちこっちで奇特を見せているそうじゃないか。その技を見せてみよ」と迫った。

 しかし、無辺は黙ったままだった。信長は「このような売僧(まいす:仏を売り、仏法を商う俗僧)を放置すると、人々はみだりに仏神を祈り、道理のない幸福を願うので大変な問題だ」と述べた。

 さらに信長は、「お前を殺すので、あとで自分の神通力とやらで蘇ってみろ」と言うと、無辺を殺害したのである。むろん、無辺が蘇ったわけではない。

■番外編:一銭斬り

 織田信長は法を守るのに大変厳しく、わずか1銭でも盗もうものなら、その盗人を死罪にするほどだった。

 これを一銭斬りといい、恐れをなした盗賊は息を潜めていたという。

 たとえ、旅人が無防備にも荷物を脇に置いて転寝していても、それを盗もうとする者は、1人としていなかったという。

 人々は乱世の折に、珍しいことだと語り合ったといわれている。

 この逸話は、信長の公正さを物語るとともに、逆鱗に触れれば、命を落としかねないことを意味しよう。

 なお、一銭斬りの語源は上記の説のほか、首を斬ると真ん中が空洞で、銭のように見えたので「一銭斬り」と称するようになったとの異説もある。 

■まとめ

 数々の信長が行った厳しい処分は、これまでもさまざまな解釈がなされてきたが、その真意がわかりづらいのも事実である。

 いくら公正な人物であるとはいえ、さすがに殺してしまうのは行き過ぎのようにも思えるが・・・。