たった1回の落ち度で死罪も… 主君の逆鱗に触れて消えた武将4選
かつては栄光に満ち溢れていた人も、たった一度の失敗で転落することがある。それは、戦国大名の家臣も同じで、たった一回の落ち度を咎められ、ときに死に至ることもあった。今回は4人の消えた武将を紹介しよう。
■新宮党
新宮党は出雲尼子氏の一族・尼子国久(1492~1554)が率いる精鋭部隊で、月山富田城(島根県安来市)近くの新宮谷に本拠を構えていた。国久は、西出雲の支配にも関与していた。
新宮党は尼子氏の軍事力の中核を成しており、各地で大いに軍功を挙げた。そのこともあって、国久と子の誠久の態度は増長し、非常に傲慢だったと言われている。
それゆえ、当主だった晴久は、家中への影響力が強くなった国久らを問題視することになった。両者の確執が顕在化するのには、さほど時間が掛からなかった。
天文23年(1554)11月、晴久は国久・誠久を討って新宮党を滅亡に追い込んだ。これにより、家中の安定は保たれ、晴久は国久の影響力のなくなった西出雲の支配も行ったのである。
■井上元兼(1486~1550)
そもそも安芸毛利氏は一国人にすぎず、一族・庶子の盟主となることで、独自の支配体制を構築した。当初、同等の地位での連携的な色彩が濃かったが、やがて毛利元就は彼らを従属化せしめることに成功する。
明応8年(1499)、有力庶子の一人である井上元兼は、毛利氏に近習並の奉公を誓った。それは、ほかの庶子が毛利氏の家臣となっていくことに、抗しきれなかったからである。
ところが、井上元兼は日頃から元就に対して、秩序を乱す横暴な態度を取っていた。天文19年(1550)、見かねた元就は井上一族を討滅。家中で絶対的支配権を確立した。
事件の7日後、元就は家臣238名に対し起請文を提出させ、毛利氏の家中支配権を承認させた(『毛利家文書』)。こうして彼らは、毛利氏の軍事動員権、行政命令権、警察裁判権に服することに応じたのである。
■佐久間信盛(?~1582)
織田信長と大坂本願寺との戦いは、元亀元年(1570)9月からはじまった。このとき、信長の期待を一身に受け、大坂本願寺攻めを任されたのが佐久間信盛である。
天正8年(1580)に至って、ついに大坂本願寺は信長に屈した。同年8月、顕如が大坂本願寺を退去し、10年にわたる抗争は終結したのだ。
戦いが終わったものの、天正8年(1580)8月、佐久間信盛は信長から19ヵ条の折檻状を突きつけられ、これまで築いた地位を失った(『信長公記』)。主たる理由は、本願寺攻略の失敗だ。
信盛は本願寺攻略でまったく成果を挙げず、ただ漫然と対処していたことを信長に非難された。信盛は家臣に対しても加増をせず、「ケチくさい」と信長から罵られた。
この直後、失脚した信盛は長男・信栄とともに高野山(和歌山県高野町)へ向かい、出家の生活を余儀なくされた。この翌年、信盛は紀伊国熊野で非業の死を遂げる。
■佐々成政(?~1588)
天正15年(1587)の九州平定後、国分によって肥後国を与えられたのは佐々成政だった。秀吉は成政が肥後に入部するに際して、①国人らに従来どおり知行を許すこと、②検地を3年間実施しないこと、を求めた。
理由は、国人らの激しい反抗を恐れるがゆえであった。ところが、早急な支配を望む成政は、秀吉の命に従わず検地を強行した。このことが原因で肥後国一揆が勃発したのである。
最初に叛旗を翻したのは、隈部親永・親泰の父子であった。成政はただちに隈部父子を攻撃すべく、親永の籠もる隈府城(菊池城:熊本県菊池市)に軍勢を向かわせた。
隈府城は落ちたものの、成政が城村城(熊本県山鹿市)の攻略に手間取っている間、肥後国人は結束して、大規模な一揆が形成された。成政の居城・隈本城(熊本市)は一揆勢力に攻囲され、予想さえしなかった苦戦を強いられた。
結局、小早川隆景、立花宗茂の援軍があり、一揆は沈静した。成政は危機を脱したが、翌天正16年(1588)閏5月、秀吉から切腹を命じられ、摂津尼崎(兵庫県尼崎市)で自刃したのである。
■まとめ
家臣が粛清されるのは、見せしめのためだった。家臣の不手際を責め、追放・殺害することで、家中はピリッと引き締まったのである。こうして大名は、家中における絶対的な地位を獲得したのだ。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】