【戦国こぼれ話】蠣崎慶広が徳川家康に蝦夷地の地図と家譜を献上し、松前氏と改姓した理由とは
夏といえば北海道。涼しいように思えるが、東京オリンピックのマラソンは猛暑の中で敢行された。ところで、北海道の大名といえば、松前氏である。松前氏は、なぜ蠣崎氏から改姓したのだろうか。
■豊臣秀吉と蠣崎慶広
天正10年(1582)6月に織田信長が横死し、ほどなくして豊臣秀吉の政権が確立すると、蠣崎慶広は安東氏の支配下を離れ、念願の独立大名になった。
文禄2年(1593)1月、慶広はアイヌの人々を集めると、秀吉から与えられた「蝦夷の支配を認める」との朱印状の内容を提示し、蠣崎氏への服従を強要した。
こうして慶広は和人地の拡大を着々と推し進め、以前からの「上之国守護領」「下之国守護領」の奪還に成功した。すべては、秀吉の後ろ盾があるからであった。
しかし、慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、雲行きはにわかに怪しくなった。豊臣家では幼い後継者の秀頼が当主になり、石田三成などが支える体制になった。
■徳川家康と蠣崎慶広
しかし、時代の趨勢は、徳川家康が有利な方向に傾いていった。慶広は豊臣政権と徐々に距離を置くようになり、家康との接近を図るようになる。
翌慶長4年(1599)10月、慶広は子・忠広を伴って、大坂城西の丸で家康に拝謁した。
このとき慶広は、蝦夷地の地図と自らの家系図を家康に呈上したのである。この行為は、家康に臣従を誓うものだった。
このとき同時に慶広は、家康から「松前」の姓を与えられた。『松前家記』によると、すでに秀吉の時代から、松前姓は使用されていたという。あるいは、自称だったのかもしれない。
松前とは蠣崎氏の支配領域全体つまり和人地の総称であり、これを姓とすることは同地の支配権を委ねられることを意味した。つまり、慶広は家康から公式に支配を認められたということになろう。
■関ヶ原合戦後の松前氏
慶長6年(1601)になると、前年の関ヶ原合戦の事情をうかがうべく、子の盛広を家康のもとに上洛させた。
盛広は従五位・若狭守に叙任されることになり、徳川政権との結びつきをいっそう強いものとした。
慶広自身も慶長8年(1603)に家康の征夷大将軍就任を祝うため上洛し、その翌年には黒印状を下賜された。
黒印状では、蝦夷地全域における、松前氏の交易権掌握が保証されたのである。これにより、松前家の財政は盤石なものになった。
つまり、慶長4年(1599)における慶広の地図・系図呈上と松前への改姓は、蝦夷地掌握の布石だったのである。松前氏は幕末維新期まで蝦夷地の支配を行い、繁栄を築いたのである。