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【戦国こぼれ話】加藤清正は将たる者の器を熟知し、部下の使い方を知っていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
名古屋城の加藤清正像。清正は、築城の名手としても知られている。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 現代の経営者は自らの経営者としての資質に悩み、また部下の使い方に悩んでいることだろう。それは、戦国大名の加藤清正も同じだったが、どのように対処したのだろうか。

■将たる者の器

 将たる者のつらさは、「率先垂範」つまり自らが常に手本でなければならないということだ。その点では、加藤清正も同じだった。

 朝鮮出兵のおりに、清正は旧知の戸田高政のもとを訪れることになった。高政は清正を迎えるために、2人の使者を送ったが、いたって軽装であった。もちろん、周囲に敵はおらず、攻撃される危険性はなかった。

 ところが、使者の2人は清正の将兵らに会って、大変驚くことになる。

 清正の将兵は、まるで戦争に赴くような重装備で、こちらへぐんぐんと近づいてきたのである。清正自身もフル装備だった。

 清正は2人の使者に対し、「配下の武将たちを風呂に入れてやって欲しい」と申し出た。行軍はさぞかし大変だったに違いない。清正の重装備を見た高政は驚愕して、「周囲に敵もいないのになぜ重装備なのか」と尋ねた。

 清正はこの問いに対して、「油断大敵」という言葉を引き合いにし、清正自身が怠けると、配下の者も怠けてしまうと答えた。

 そして、自分自身は大変であるが、将として気の緩みのないところを周囲に見せなければならないと言ったのである。一瞬の気の緩みが身の危険を招き、今まで築き上げたものをダメにしてしまう。これこそが清正の真骨頂である。

■部下の使い方

 清正には、部下の使い方に関する逸話もある。

 戦国大名が配下の武将を等しく扱い、適材適所で用いることは、大将の器として非常に重要な要素である。清正は、その才能を兼ね備えていた。

 朝鮮出兵のとき、清正配下の村又市が敵と交戦中だったが、やがて日が暮れようとしていた。日本国内ならいざ知らず、戦いの場は異国である。清正は、直感的に又市を引き上げさせないといけないと思った。

 そこで、清正は並みいる配下の武将の中から、末席にいた庄司隼人を呼び出し、又市を引き上げさせるように命じたのである。

 隼人は清正の命令を受けると、直ちに手勢を率い、ものの見事に又市を戦地から引き上げさせた。作戦は大成功で、清正の指示どおりになった。

 しかし、この様子を見て、はらはらと涙を流す者がいた。同じく清正の配下にあった、森本義太夫である。義太夫はなぜ自分を用いず、末席の隼人を用いたのかを尋ねた。

 清正は躊躇なく「人にはそれぞれ得意・不得意がある。義太夫ならば、かえって戦場で大暴れして目的を達し得ないであろう」と答えた。配下の武将は平等である。それを生かすか殺すかは、大将の腕にかかっていた。清正は、部下の適材適所を常に考えていたのである。

 清正のエピソードは、現代においても、経営者の資質や部下の使い方を知るうえで、貴重な示唆を与えてくれるはずだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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