【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦前夜、大谷吉継は石田三成との厚い友情によって、西軍に与する決意をしたのか
相変わらず深刻なイジメが問題となっており、友情なんて使い古された言葉になった。しかし、関ヶ原合戦が起こる直前、大谷吉継は負けるとわかっていたが、石田三成との厚い友情から西軍に与したという。その逸話について考えてみよう。
■石田三成に人徳なし
大谷吉継は稀代の名将として知られ、かの豊臣秀吉もその才能を高く評価していた。しかし、吉継は運悪くハンセン病を患い、失明してしまった。そのため、秀吉の再三の要請にもかかわらず、出仕を拒んだという。
吉継は石田三成よりも1つ年長で、若い頃から交誼を結んでいた。しかし、三成は人望がなかったために、吉継はそのことを常日頃から注意していた。吉継は徳のない人間が大将になっても、戦いでの勝利が見込めないと考えていたのである。
そのため、三成が徳川家康の討伐計画を吉継に打ち明けると、真っ先に反対したのである。しかし、長年付き合った友人である。結局、吉継は情にほだされ、三成のために戦おうと決意をした。
三成の作戦の1つには、居城である近江佐和山城(滋賀県彦根市)を修築し、より堅固なものにしようという考えがあった。これに真っ向から反対したのが、吉継である。吉継は、敵地に付城を構えることが得策であると主張した。
昔から「地の利」「人の利」というが、吉継は「大将にとって本当の要害とは徳である」と言いたかったのである。案の定というべきか、人望の薄い三成からは、多くの敵対勢力があらわれた。吉継の言葉どおり、人徳のない三成は負けるべくして負けたのである。
■三成の強い決意に与同する
もう一つの逸話を紹介しておこう。
関ヶ原合戦前夜、三成が吉継に相談を持ちかけた。徳川家康の討伐計画である。しかし、客観的な状況からして、三成が家康に勝てる見込みは非常に薄い。吉継はいくつかの理由をあげて、三成を思い止まらせようとした。その理由とは、次のようなものである。
家康は五大老の筆頭であり、関東に強大な基盤を築いている。しかも、官位も高く、豊臣恩顧の諸大名も厚い信頼を寄せていた。配下には、有能な人材も豊富である。そのような歴戦の勇士相手では、とうてい三成に勝ち目はないということだ。
それでも三成は、毛利氏、宇喜多氏のような大名を味方にすれば、勝利することも可能なはず、と一歩も引かなかった。もはや挙兵を固く決意していたのだ。
三成の決意の程を知った吉継は、その強い信念に感じ入るとともに、かつて秀吉から受けた恩義が脳裏を駆け巡った。吉継は「ここに至っては、もう時代の流れは留めようがない。貴殿(三成)とともに死のう」と決意したのである。
いざ合戦がはじまると、吉継は最善を尽くすが、家康はやはりそれを上回る名将だった。吉継は関ヶ原で敗北を喫し、潔く散ったのである。
以上の話は単なる逸話にすぎないが、強い決意だけでは成功しない好例である。大将としての人徳も必要であるし、情勢を客観的に分析し、引くところは引くという決断をしなくてはならない。
ただ、上記の話は後世の編纂物に書かれたもので、史実ではない可能性が非常に高いことを申し添えておく。あくまで生きるためのご参考に。