【戦国こぼれ話】長篠の戦いで磔になった鳥居強右衛門は、なぜ犠牲になったのだろうか
長篠城址史跡保存館の所蔵する鳥居強右衛門(すねえもん)の磔図が、修繕して公開されるという。鳥居強右衛門は長篠の戦いで磔になったことで知られているが、いったいどんな人物だったのだろうか。
■よくわからない鳥居強右衛門
実は、鳥居強右衛門については、ほとんど情報がない。一説によると、天正3年(1575)に亡くなった時点で、36歳だったといわれている。これが事実ならば、数え年で天文9年(1540)が生年になろう。
出身地についても確証はなく、三河国宝飯郡(愛知県豊川市)であると伝わっている。いつ頃からか、強右衛門は奥平氏に仕えたという。奥平氏も謎が多い一族で、もとは甲斐の武田氏に仕えていたが、のちに徳川氏の配下に収まった。
■危機に陥った長篠城
奥平貞昌(のちの信昌)は、徳川家康から長篠城(愛知県新城市)の守備を任されていた。城兵は約500だったといわれている。天正3年(1575)5月、武田勝頼は1万5000の軍勢で長篠城を攻囲した。
5月8日に長篠城の攻防は開始されたが、やがて兵糧が乏しくなるなどし、危機的な状況に陥った。大軍の武田軍を前にして、長篠城はまもなく落城するという絶体絶命の状況になったのである。
そこで、貞昌は援軍を要請すべく、家康の居城・岡崎城(愛知県岡崎市)へ使者を送ることにした。しかし、長篠城は武田氏の大軍に攻囲されており、蟻の這い出る隙間もなかった。
このような状況下において、長篠城から武田氏の大軍をすり抜けて岡崎城まで行き、援軍を要請することは、とてもではないが不可能であると誰もが思った。
■鳥居強右衛門の登場
貞昌が頭を悩ませるなか、自ら決死の覚悟で使者の役目を志願したのが強右衛門である。5月14日、闇夜に紛れて長篠城を発った強右衛門は、武田軍の包囲網をかいくぐるため、密かに川を潜って城外に出た。
5月15日の朝、強右衛門は雁峰山から狼煙を上げ、長篠城に脱出が成功したことを知らせた。そして、当日の午後には岡崎城に到着し、家康に長篠城の窮状を訴え、援軍の要請を行ったのである。
強右衛門が岡崎城に到着する以前の段階で、家康は長篠城の危急を把握しており、すでに織田信長に援軍を求めていた。そして、織田軍3万、徳川軍8000の計3万8000の軍勢が長篠城に向かう予定になっていた。
強右衛門は援軍の計画を知らされたので、ただちに貞昌に伝えるべく、長篠城へと急いだ。5月16日早朝、強右衛門は雁峰山から狼煙を上げ、長篠城に入城する旨を知らせたのである。
■捕らえられた強右衛門
しかし、武田軍は狼煙が上がるたびに城内から将兵の歓声が上がるのを不審に思い、警戒態勢を強めていた。そして、運が悪いことに、強右衛門は長篠城の近くの有海村において、警戒中の武田軍に捕縛されたのだ。
武田軍が強右衛門を取り調べると、やがて織田・徳川連合軍3万8000が長篠城の救援に向かっていることを知った。そこで、勝頼は援軍が来る前に、何としてでも長篠城を落とそうと考えた。
勝頼は強右衛門に対し、「もう長篠城には織田・徳川の援軍は来ないので、すみやかに城を明け渡すべき」と虚偽の情報を長篠城の将兵に伝えるよう命令した。その見返りとして強右衛門の命を助け、武田家の家臣として迎えるという条件を提示したのだ。
■強右衛門の最期
強右衛門は勝頼の命令に応じることにし、長篠城西岸の見通しのよい場所へ連行された。ところが、強右衛門は捕まった時点ですでに死を覚悟しており、あくまで武田軍に本心を隠していた。
強右衛門が武田軍から長篠城に投降を呼びかけるよう命じられると、長篠城の城兵に対して、あと2・3日で援軍が来るので、それまで持ち堪えるよう叫んだのである。あろうことか勝頼の命令に背いたのだ。これを聞いた長篠城の城兵は、安堵した。
勝頼は強右衛門の裏切りに怒り、部下に殺害させたといわれているが、今では磔にされたという説が有力視されている(『三河物語』)。
16世紀に作成された「落合左平次道次背旗」(東京大学史料編纂所所蔵)は、武田家の家臣・落合左平次道久が用いた背旗に逆磔に処された強右衛門の姿を描いたものである。長篠城址史跡保存館の所蔵する鳥居強右衛門磔図も名品である。